7/02/2022

From July 28 to 30, 1952, the City of Hiroshima exhumed the bodies of A-bomb survivors who had been treated posthumously at five locations, including Koyaura and Kotadani in Saka-machi, Aki-gun, Hiroshima Prefecture.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分にアメリカ軍が投下して炸裂した。炸裂した当日から、広島市の南西部で広島市と呉市の中間地点である広島県安芸郡坂町には、日本軍の救護所が設置された。次々に重態の被爆者が広島市から護送された。その他には、広島市内から徒歩で多数の避難者や被爆者が、坂町まで逃避した。坂町までたどり着いた被爆者は、原爆症により次々に原爆死した。死体の処理が追いつかずに、多くの死体は土の中に直接に埋葬する土葬からあるいは火葬後に埋葬された。

 1952年7月28日から30日までの3日間に、広島市は、広島県安芸郡坂町の小屋浦・小只谷などの5ヶ所にて、死後の処置された被爆者の死体を発掘した。約156死体は土中に埋葬されていた。約60死体が死後に野ざらしになっていた。約36体が死体を火葬後に土中に埋葬された(広島原爆戦災誌, 1971年8月6日発行)。改めて供養して、平和記念公園の原爆供養塔に収納した。広島に原子爆弾が投下され多くの被爆者が坂町に運ばれて来て、住民の看護の甲斐もなく約半数の被爆者が死亡された。坂町には小屋浦海水浴場休憩所や小屋国民学校にも、臨時救護所が設置されて約360人が収容された。

 小屋浦海水浴場と暁部隊野戦病院が8月6日に開設されて、約200人が収容されて、約150人を埋葬して、8月20日に閉鎖された。小屋浦国民学校も8月6日に開設されて、約60人が収容された。小屋浦火葬場で約40人が火葬されて、8月20日に閉鎖された。1971年8月6日に発行された広島原爆戦災誌に、坂町小屋浦を名指して約7年間死亡した被爆者の約60体を野ざらしと記載された。坂町の慰霊碑奉賛会は、「野ざらしの誤記に憤りて 散りしける 藪椿の実ぞ 永久の語部」と広島原爆戦災誌の誤記を訴えて、1989年の広島市制百周年に発刊された広島原爆戦災誌改訂版で、野ざらしの記載は抹消された。



6/25/2022

A large number of atomic bomb survivors housed in the remaining buildings of Hiroshima City First National School were rescued on August 10, five days after the Hiroshima atomic bomb exploded.

広島市第一国民学校は、被爆直後から残存校舎の講堂・工業教室が、一般被爆者の臨時救護所として、1945年10月上旬まで使用された。第一国民学校に収容された多数の被爆者が8月10日に収容されて救護されていた写真である。校庭の一部は、9月10日まで仮火葬場として使用された。臨時救護所は10月初旬に閉鎖した後に、10月中旬までに教室を整備して学校を開校して再開して、臨時の仮教室として、講堂・工業教室・西校舎を使用した。

 広島市第一国民学校(現・広島市段原中学校)は、爆心地から約2.6kmに位置していた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下され炸裂した直後に、第一国民学校の北側木造校舎は東側校庭に全壊した。西側校舎・東側校舎(コンクリート造)・講堂などは、窓枠と窓ガラスが全壊したが、倒壊には至らなかった。倒壊した校舎や周辺の住宅からの火災の引火はなかった。1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市内の国民学校 約33校が救護組織と救急薬品を持つ救護所に指定された。

 第一国民学校は、原爆の炸裂時には職員約20人と学生約580人は校外に動員されていた。第一国民学校内には、学校管理2人、児童約6人、小使い1人のみが残存した。学外の教職員1人が即死、約9人が傷害であり、児童は約46人が即死、約50人が傷害、約2人が行方不明となった。学内では給食係の1人の女子生徒は倒壊した校舎下に死体が約1ケ月後に発見された。原子爆弾の炸裂時に、北校舎の倒壊して学内者は倒壊して一時的に校舎の下敷きになった。第一国民学校の原爆被災説明板は段原中学校正門横に建立されたが、2014年に広島市南区段原山崎の段原山崎第二公園に移設された。





6/18/2022

Large black rain droplets containing highly radioactive and muddy elements left traces of their water droplets on a white wall in Takasu, Furuta-cho, Hiroshima, approximately 3.7 km from the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。



6/11/2022

A photograph of the shadows of people and carts crossing the Yorozu Bridge, located approximately 880 meters from the hypocenter, burned into the asphalt by the heat rays immediately after the Hiroshima atomic bomb was detonated.

広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。

 熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。



6/04/2022

In June 1971, Akio Morii, the five years old second son of his father Kazuyuki Morii, who was exposed to the atomic bombing in Hiroshima City, became his second generation to suffer from leukemia and was critically ill at Hiroshima University Hospital.

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。


5/28/2022

A three-story wooden fire station about 2.6 km southeast of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb was reduced to rubble, and several firefighters and one fire truck were trapped under the collapsed building.

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



5/21/2022

From August 7, 1945, the day after the Hiroshima atomic bomb exploded, a large number of survivors of the Hiroshima bombing rushed to the temporary relief hospital specially set up at the Oshiba National School to receive treatment.

大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。



5/14/2022

A doctor and a nurse worked hard in the outpatient treatment room at the Hiroshima Teishin Hospital for Disaster Relief to treat a woman who had been exposed to the devastating burns caused by the Hiroshima atomic bomb.

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。




5/07/2022

Treatment of Ear suffered from Hiroshima Atomic Bomb by Dr Shigeo Takahara at the otorhinology in the Hiroshima Red Cross Hospital.

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。



4/30/2022

At Hiroshima Red Cross Hospital Medical, Nurses were extremely busy changing bandage for treatment for outpatients to A-Bomb Survivors Coming in large number.

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の被爆直後から押し寄せる被爆者の診療の補助と療養上の世話など多忙を極めた。広島原子爆弾により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。担架で運ばれた被爆者は入院に、外来には、被爆者が詰め寄せた。被爆者は、原子爆弾の猛烈な爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、悲惨な身体に変貌した。傷口には、チンク油やリバノール液をガーゼで塗布した。ホウ酸水で洗浄した包帯で、創部の傷口を覆った。カーテンを裂いた包帯を巻いた。爆風により、突き刺さったガラスを除去した。

 広島赤十字病院は、被爆直後から救護活動を開始した。各所に救護テントを増設して救護した。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医療関係者や職員らは約51人が死亡して、約250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院であり、め、治療を求めて被爆者が殺到した。鉄筋コンクリート3階建ての病院は、外郭だけが残存して、猛烈な爆風によって窓ガラスは吹き飛び、室内も無惨に破壊され、悲惨な被爆した建物となった。木造であった看護婦生徒寄宿舎はほぼ全壊して、火災により類焼した。看護婦には、原爆症と過労のために血便も続出して、貧血に陥った。看護婦は、身を横たえた末期の被爆者を、できるだけ楽に死に行くように見守った。水道水で、身体を清拭して、末期の水を求める被爆者には致し方なく禁忌の水を含ませた。排泄介助、感染予防などから死体の処理まで担当した。

 戦時体制に向けて、国家の全ての人的・物的資源を、日本政府が統制管理する1938年に国家総動員法が成立した。1944年8月23日には、太平洋戦争時下の労働力不足を補うために、中学以上の男子生徒と12歳以上の未婚女性を強制労働に動員できる学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が交付された。戦時体制下の看護婦も巻き込まれて、従軍看護婦など兵役勤労にも動員された。 



4/23/2022

A Japanese child sits crying in the rubble of Hiroshima a year after on 27th July 1946, the Hiroshima city was devastated by the world's first atomic bomb attack.

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。





4/16/2022

Two to three months after the Hiroshima atomic bomb exploded, local Japanese soldiers, relief workers, and A-bomb survivors gathered in Hiroshima Station from near towns and villages to provide relief and aid to the victims.

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂した。爆心地から約1.9kmの広島駅構内は、原子爆弾による火災で全焼した。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。広島原子爆弾の投下して炸裂後に、広島駅周辺は焼け野原となった。広島市には大規模な守備隊があり、原子爆弾により広島城の練兵場で演習していた約3,243人の日本軍兵士が被爆死して、日本軍兵士は広島鉄道駅で救護された。

 広島駅ホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、東練兵場(現在の光町)の方に走って逃げた。まるで阿修羅のような惨状が繰り広げられた。まさに亡霊のような姿でトボトボと歩いて鉄道寮の方に向かった。途中、東練兵場の中には足の踏み場もないほど多くの被爆者が横たわっていた。火傷をした被爆者や負傷をした被爆者、中には裸同然の人など、地獄さながらの様相であった。「助けてくれ・水をくれ」と叫び通行人にとりすがった。

 近隣の町村から広島市内に急行して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々が集結した。アメリカ軍により1945年10月か11月に広島駅構内の写真は撮影された。広島駅の待合室は倒壊して、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡から、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒約20人を含めて約78人の死体が発見され、駅職員も約11人が死亡した。  

 広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかり、全線が不通になった。入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業をした。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれたが、そのほかの詰所はほとんど焼失した。8月6日12時頃に、広島駅の裏線から避難列車第一号が発車し、夕方5時頃にも山陽本線の上りに避難列車が発車した。鉄道は、原爆投下当日の8月6日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた。復旧作業も早急に進められ、8月7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線、8月8日は幹線の山陽線、8月9日には広島県北部地域をつなぐ芸備線が開通した。そして、8月18日には広島市郊外をつなぐ可部線が全線開通した。壊滅的な被害を被った市内路面電車も8月9日には一部区間(西天満町〜己斐)で片側運転が始められた。



4/09/2022

One Hiroshima atomic bomb survivor lay on the basement floor of a bank, his burned left forearm and fingers looking at papers, stick chopsticks and a bowl of tea around him.

ござとむしろの上に、布毛布をかけて、ひとりの男性被爆者が横たわっていた。火傷した左前腕と手指で、周囲の書類をつまんで眺めていた。被爆者の周囲には、棒きれの箸と茶碗が置いていた。1945年9月中旬に、アメリカ海軍が広島市内の臨時収容所内部の地下1階で、被爆者を撮影した。広島市内上流川町(現在中区胡町)の日本勧業銀行広島支店の収容所にて、アメリカ海軍が撮影した。但し、日本勧業銀行広島支店の収容所は、宇品の陸軍船舶司令部は8月12日に引き揚げている。第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、重症の被爆者はどこかほかの救護所へ移送された。

 日本勧業銀行広島支店は、1931年4月に鉄筋コンクリート造の新しい本店が竣工して移転した。アメリカ風のRC造3階建て地下1階の建物であった。中国新聞社の東隣りで、1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約940mに位置した上流町の日本勧業銀行広島支店(3代目本店)は外郭は維持されたものの内部が全焼し、勧銀全体で32名の犠牲者を出した。

 広島原子爆弾の被爆当日の8月6日から、日本勧業銀行広島支店は、広島市の受託銀行として援護資金を融資して、戦後も長く勧銀広島支店、1971年から第一勧業銀行広島流川支店として使用された。1972年には八丁堀の広島支店に統合された。店舗は廃止されて、清水組広島支店などに利用された後に、1980年に解体された。



4/02/2022

Shima Hospital was completely destroyed by the atomic bombing of Hiroshima, where the hypocenter was over the hospital, and ground zero was the hospital itself.

広島原子爆弾の爆心地の直下となった細工町29番地2の島病院は、玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外を除いて全て崩壊した。島病院の建物は瓦礫の山となり、レンガの一部を残して、圧潰されて崩壊した。島薫院長の回想録では、病院関係者の約80人が即死した。敷地は約1,320平方メートルでレンガ造り2階建て、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者の木造の施療7室もあった。 

 原子爆弾の投下日に、世羅郡甲山町への出張手術した島薫院長と看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子は健在であった。8月6日午後7時前に、世羅から復路上で列車が矢賀駅で停止した。その後徒歩で広島市内に向かった。見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がって、焼け跡の熱気で島病院に近づけなかった。翌日の8月7日午後に、瓦礫の山の島病院に到着した。玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、死体の口の中の金歯から婦長の宮本さんだと判明した。瓦礫の底では、死体は原爆が炸裂で直後に一部は骸骨化して、大量の黒焦げの死体と白骨が散乱していた。ほかの人の死体は皆下敷きになって行方不明となった。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島薫さんは、外遊中に買ったアルミの箱の器具ケースにつまづいた。その中に入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐える器具であった。その器具が島病院の唯一の痕跡と回想した。島薫は病院の焼け跡に消息を知らせる伝言板を書き残して、関係者を探して回った。島薫らは、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら、島病院から西約460mの救護所となった袋町国民学校で被爆者の救護活動に従事した。島薫院長は、1945年10月上旬に、入院通院患者・付添者看護婦家人・病院関係者の生死消息を尋ねて記載を求める看板を立て掛けた。 

 爆心地(hypocenter)は、現在の広島市中区大手町1丁目5−25の島内科医院の第3駐車場上空である、東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600mと推定された。広島現爆弾の原爆被害を伝える象徴である原爆ドームは、爆心地から西へおよそ200メートルの地点に存在した。島病院は、原子爆弾が炸裂した直下の地表面となる「グラウンド・ゼロ(Ground zero)」であった。グラウンドゼロを爆発する爆弾、特に原子爆弾のすぐ下にある地面の部分と定義して、最も深刻な被爆を受けた地点を示した。2001年9月11日の同時多発テロ事件では、アルカイダのテロリスト10人がハイジャックした2機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーに飛び込んで、110階建ての高層ビルが倒壊した。崩壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼称された。

3/19/2022

In May 1973, 23,000 items that had been taken to the United States for research twenty-eight years earlier, including clinical records, slide specimens, and human remains, were returned to Hiroshima.

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。



3/12/2022

On August 22, 2002, approximately 45 kg of highly enriched uranium for nuclear weapons was transported from the Institute of Nuclear Science in Bicha, former Yugoslavia, to the National Nuclear Research Institute in Russia.

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。



 

 







 約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。



 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。 

3/05/2022

A boy returned to the contaminated area of the Chernobyl nuclear power plant in the Republic of Ukraine. A month later, a boy, Dima, in a radioactive forest, outbroke fulminant leukemia and died.

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。





 






   両親は離婚して、ディマは母親はチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。





 







   ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2/26/2022

New York’s Mount Sinai Hospital agreed to help 25 Hiroshima Maidens in New York from May 1955 to June 1956 when Mount Sinai surgeons performed over 138 operations for free.

1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身体は忌まわしいもの、生きられないもの、住めないものとみなされた。原爆投下時に子どもであった被爆者は、孤独な存在である同情と絶望を感じ、「原爆乙女, Hiroshima Maidens」と認識された。アメリカの一般市民は、初めて被爆者と出会い、傷跡を通して、広島の隠された非人道的結果を可視化した。生と死の狭間に存在する彼女たちは、醜態を作り出したアメリカの介入によって、死の仮面を脱ぐことになった。彼女たちは、爆弾痕、原爆痕、ヒロシマ痕、とさまざまに形容された。原爆投下から10年、彼女たちは人生の大半を被爆者として過ごした。原爆乙女たちは、原爆による生理機能の停止を懸念していた。ケロイド状の傷跡を含む顔の醜さは、地元では身体的な汚染の兆候と認識された。ケロイド少女として知られ、限界的なデスマスクを感傷的に扱われた。年齢を重ねるにつれ、原爆乙女たちは、通常の同世代の女性たちから孤立した。

 ABCC(原爆障害調査委員会)は、被爆者の研究はするが診療は全く行なわなかった。サタデー・レビュー・オブ・リタラチャー誌の編集者であったノーマン・カズンズは、1955年5月5日に、谷本清牧師と共に、25人の若い女性被爆者を米国に招き、再建整形手術を受けさせた。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成外科を受けた。渡米中に18か月以上にわたって女性に対して138回の手術が行われ、中林朋子だけは、軽度の再建手術で心停止により死亡した。アメリカが医療と慈善活動の究極の先駆者であるも、その他16人の女性は大阪と東京で手術を選択した。アメリカの美学を、中流階級のクエーカー教徒のホストファミリーは、原爆乙女たちに求めた。髪型を整えられ、高価なツイードのスーツ、エレガントなシャツ、カシミアのセーターなどを贈られた。絵画や看護、秘書などの趣味を持つことも奨励された。原爆乙女たちの治療に用いられた再建外科技術は、形成外科で適応・輸出された。

 原爆乙女のうち2人は、谷本清牧師と家族とともに、アメリカのテレビ番組(This is Your Life)に招待され、スクリーンの後ろに隠れて可視化された。司会者エドワーズは観客に「彼女たちを困らせないために、顔は見せない」と言った。エノラ・ゲイの副操縦士で、ロバート・ルイス中尉は、原爆投下は命令に従って、「8時15分、原爆が投下された。放射線と爆弾の影響から逃れるために、すばやく方向転換した。まず大きな閃光があり、次に2つの衝撃波が爆撃機を襲った。その直後、私たちは何が起こったのか確認するために後ろを振り返った。すると目の前に、広島の街が消えていた。私は後で、"何てことだ、私たちは何をしたのだろう "」と書き留めた。彼は罪悪感とうつ病が重なり、1950年代後半には一時的に施設に収容された。その後に彫刻家として、「広島の神の風」と涙で流れ落ちるきのこ雲の巨大な彫刻を丹念に作り上げた。

 1956年6月12日にニューヨークから中村朋子さんの遺骨とともに出発した。原爆の乙女たちは身体的特徴を取り戻すことができたが、彼らの帰国は、彼らを歓迎する人々と西洋の操り人形と見る人々の間で分裂した。原爆乙女たちが帰国した翌1957年、日本で原爆医療法が制定された。




2/19/2022

A Japanese soldier, whose upper body was exposed to the heat rays of the Hiroshima atomic bomb was admitted to the Hiroshima Red Cross Hospital in October 1945 and treated for burns.

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者の佐々木忠孝が、1945年10月5日から6日にかけて、爆心地から約1,500mの広島赤十字病院に収容されて火傷の処置を受けた。ガーゼにリバノールを塗るだけの治療だった。火傷の上でガーゼを交換するのは非常に激痛であった。広島赤十字病院は、外観だけが残り、窓は吹き飛ばされ、内部は破壊された。原爆投下の日から、病院には被爆者が殺到した。

 被爆者の佐々木忠孝は、広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属していた。8月6日に爆心地から北東約1kmの広島城の近くで被爆して、意識を失って、気がついたときには、広島城の外堀まで吹き飛ばされていた。大火傷を負いながらも、なんとか河川敷に逃げ込んで助かった。8月7日に、トラックで救護所となっていた福屋百貨店に運ばれた。その後に、担架で広島赤十字病院に移送されて入院した。その頃は毎日4から50人が死亡していた。奇跡の生存者がいると紹介されて、映画に撮られた。映画のライトの熱でやけどがピリピリして、その時はこれ以上痛いめに遭わせてくれると偲んだ。原子爆弾の火傷は、驚くほど早くケロイドの瘢痕が増殖した。

 旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班は、10月1日から医学撮影チームの映画撮影が始まった。戦時災害補償法による医療の打ち切りで、すべての救護所が閉鎖されることになった。しかし、病院や救護所では医療支援が行われており、多くの被爆者が原子爆弾による原爆症を患っていた。撮影スタッフは、過酷な状況に置かれている被爆者の様子に心を痛めながらも、抵抗を乗り越えて多くの映像を撮影した。医療班のフィルムは他のフィルムとは異なり、主に負傷した被爆者に焦点を当てている。日本映画者が製作したフィルムは、GHQに接収されてから1967年になって文部省に返還された。





2/12/2022

At the Nagasaki atomic bomb, Dr. Nagai in the Nagasaki Medical College Hospital received a serious injury but joined the rest of the surviving medical staff for the atomic bomb victims.

 長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。

 永井隆(Takashi nagai,島根県出身,1908年2月3日~1951年5月1日)は、長崎原子爆弾で被爆した放射線科医師であり、浦上の聖人と呼称された作家である。戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足でも透視を続け、1945年6月にX線被曝による白血病と診断されて余命3年の宣告を受けた。日中戦争で1937年7月から広島歩兵連隊の軍医として中国に出征して、日本に帰国した1940年2月頃に発病と推定された。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下された。原爆投下時に、長崎医科大学病院の放射線科に勤務して、右側頭動脈を切断する重傷を負った。他の医療スタッフと共に原爆被害者の治療に専念した。8月11日に永井は妻が死亡して破壊された自宅を発見した。9月20日頃に原爆病が発現して、傷が壊死して始め高熱が続き昏睡状態に陥って、一時的に危篤となった。1945年10月15日に爆心地近隣の浦上に戻り、6畳ほどの小屋を建て、家族と一緒に留まった。1947年に聖ビンセント・ド・ポール協会(SSVDP)が、2畳の茶室の建物を建て、永井は「如古堂(Nyokodo)」と名づけ晩年は祈りと思索にふけった。

 永井は教育活動も再開し、本の執筆も始めた。最初の作品「長崎の鐘」は、原爆投下1周年の1946年8月までに完成した。『長崎の鐘(The Bells of Nagasaki)』は、GHQ側の検閲から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本の条件で、1949年1月日比谷出版社から出版された。

 1946年7月に長崎駅のホームで倒れて、体が不自由になり、以後寝たきりになった。1951年5月1日午後9時40分頃、永井は意識を失った。心肺蘇生剤した後、午後9時50分に43歳で病死した。翌日、遺言により病院で検死が行われた。脾臓は3,410g(正常値は94g)、肝臓は5,035g(正常値は1,400g)に膨れ上がった。





2/05/2022

The ABCC photographed a girl and a boy with keloid scars from the Hiroshima atomic bomb under recognition numbers. A young woman with facial keloids on her face had her hair tied up.

ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけて膨隆した若い女性の髪を結い上げて、羞恥心を伴う異様で醜いケロイドを露出させて写真を撮影した。ケロイドのある男子生徒を校庭ばせて写真を撮影した。ABCCの写真は、ニール中尉から日本側の都築正男調査団長にも提示された。アメリカ軍側は、原子爆弾に関する大量の調査記録を集積した。被爆者の火傷は皮膚が再生して瘢痕組織を形成して、さらに過剰に再生して肥大して腫瘤が突出した。引きつれて、かゆみや関節の拘縮をともなった。

 ABCCは、ケロイド状の傷を持つ少年少女の写真を多数に撮影した。すべての学校を訪問して、生徒や教師、職員は全員の調査やデータ収集をした。被爆者は、アメリカ人に助けてもらえると勘違いした。アメリカ人は日本の子供や大人の苦悩にはあまり興味がなく、研究対象として扱った。ABCC研究所では若い被爆者の性器も検査した。ABCCは被爆者の7,500体の死体を病理解剖して、その臓器をアメリカ本国に送付した。

 ABCCは、原爆投下後の広島と長崎の日本人の民間人を救済する思いやりのある救援活動として、日本とアメリカの一般市民には宣伝されていた。生存した被爆者やアメリカ連合軍の医療関係者らが残した記録や伝記、文書、インタビューなどを通して、ABCCは思いやりのある救援活動ではなかった。ABCCの第一の目的は、原子爆弾の人体への影響に関する研究を進めるための被爆者のデータを収集することであった。

 アメリカ軍はマンハッタン計画副責任者のファーレル准将を団長として、医学顧問のオーターソン大佐ら12人が、終戦直後の1945年9月9日に広島原子爆弾の調査に入った。都築正男の日本調査団が10月12日から現地で合流して、原子爆弾の影響調査のための合同委員会が構成された。アメリカ側の合同調査団は、調査結果から診療記録、病理標本、写真などを収集した資料は、1946年1月までに船でアメリカに移送された。日本側の資料の解析はアメリカ軍のみが実施して、内密に膨大な報告書が作成された。これらの接収資料は、ワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所で保管された。1973年になって、日本政府を通じて広島大学と長崎大学に返還された。




1/29/2022

Yoshida Katsuji, suffered from Nagasaki Atomic Bomb, age fourteen, before and after surgery of Skin grafting for keloids at Omura Naval Hospital.

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

 中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。




















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。

1/22/2022

14th December 1946: Kunio Yamashita, a seventeen year old victim of the atomic bomb attack on Nagasaki. He sustained these burns 1.5 mile away at the Nagasaki railway station.

 長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日にその後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。



1/15/2022

A boy , 12 years old, who was a five-month-old fetus at Hiroshima Atomic Bomb died of acute medullary leukemia from secondary radioactivity.

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。

 健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。

 原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。

 神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken) 

















1/08/2022

At 1km from the hypocenter of Hiroshima Atomic Bomb, the Hibakusha was suffered from 165 splinters of glass in the windows to the upper body.

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




1/02/2022

A young man who was exposed to the Nagasaki atomic bomb was rescued from a Roman Catholic church in Nagasaki City due to A-bomb disease. He suffered burns and keloids from exposure to the face and both upper limbs.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




12/25/2021

A Japanese woman and her child, casualties in the atomic bombing of Hiroshima, lie on a blanket on the floor of a damaged bank building converted into a hospital and located near the center of the devastated town, on October 6, 1945.

  1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




12/18/2021

At the Hiroshima Red Cross Hospital, an auscultating pediatrician, along with a nurse, examines and treats an injured and crying infant with A-bomb disease in Hiroshima.

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。



 

12/11/2021

A male hibakusha, exposed to radiation from the Hiroshima atomic bomb, sits emaciated on his bed after being admitted and treated at the Hiroshima Red Cross Atomic Bomb Hospital.

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っている姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。





12/04/2021

The 1st National School, located about 2.6 kilometers east-southeast of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, was used as a first aid station, attracting a flood of A-bomb survivors.

 広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。

 広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。

 被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。

 広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。