5/22/2021

When the Nagasaki atomic bomb exploded, a 22-year-old female worker suffered severe atomic bomb sickness about 11 days after the bombing and was escorted to the Omura Naval Hospital, where she died of the bombing.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。



5/15/2021

In the day after the Nagasaki atomic bomb exploded, the area around the Catholic Church of Nakamachi collapsed and burned down. The citizens of Nagasaki survived in only gathered together to search for their relatives and homes.

 長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。


 

5/08/2021

On 25 July 1946, the United States conducted the first-ever underwater nuclear explosion at test Baker detonated at the Bikini Atoll in the Pacific Ocean.

1946年7月25日に、アメリカは史上初の水中で原子爆弾の核爆発を実施した。太平洋のビキニ環礁で爆発したベイカー核実験は、これまでに行われた約2,000回を超える核爆発実験の中で5番目であった。これらの核実験の内では、わずかのベイカー核実験などは、主に船舶や潜水艦の被害を評価するために水中爆発で核実験された。1962年のスターフィッシュ・プライム核実験などの宇宙空間での少数の核実験を除いて、主に核実験の約4分3は地下で行われ、残りは大気中で行われた。
 ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
 ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
 ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。





Operation Crossroads (Baker Event 1946)

5/01/2021

On August 6, the atomic bomb is dropped on Hiroshima. Gen's father and siblings perish in the fires, but he and his mother escape.Hiroshima lies in ruins, and the city is full of people dead and dying from severe burns and radiation sickness.

はだしのゲン「第1巻 青麦ゲン登場の巻」で、1945年8月6日にアメリカ軍により、広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した。直後に家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した。原子爆弾が炸裂した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場となった爆心地周辺から逃避した。その後に、生まれたばかりの赤ん坊の新生児を抱えたお母さんと一緒にはだしのげんは逃避した。戦後から、さまざまな苦難の日々を過ごした。
 「ばだしのゲン」の作者である中沢啓示は自らの小学校1年生の広島原子爆弾の被爆体験を源泉として「少年ジャンプ」に連載したマンガの長編で、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の厳しい被爆者の厳しい生活を描いた。太平洋戦争の末期にて、広島原子爆弾を舞台にして、小学校2年生の中岡元が主人公のはだしのゲンは掲載された。下駄の絵付けの製造に従事している中岡家はとても貧しかった。5人の子供たちは健やかに戦中に育った。しかし、父親が太平洋戦争に批判的な発言をもらして、非国民として疎外と差別されて、村八分に追い込まれた。 
 やがて、戦後に日本軍の予科練に志願して入隊していた長男の中岡浩二と、学童疎開していた次男の中岡昭とめぐり会った。焼死した弟の中岡進次とよく似た孤児の隆太も加わった。生活は一層にふくらみを持って展開されが、このマンガのポイントは、被爆者たちの悲惨な生活の実態を通じて、戦争の残酷と悲惨が描き出された、
 戦後の若い世代は、戦争の大量虐待と大量虐殺を全く体験もなくて無知である。テレビ・映画・アニメ・ゲームなどのゆがんだ戦争感で洗脳されている。戦争の恐怖と困窮は、原子爆弾の炸裂や戦場で射撃や空襲を受けるだけでない。戦争に対して批判や反対、積極的に戦争に協力しない者は、全て差別されて村八分になり虐待と虐殺むされる。しかも、それらの後遺症は、戦争後にも及び悲痛な傷口が開いている。
 はだしのゲンは、そのような戦中と戦後の世の中の境遇に決して諦めないで、這いながら生きた。はだしのゲンと呼ばれた少年が主人公となり、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の悲惨な被爆者の生活をより痛切に描写した。中岡家は、戦中は非国民の一家として周囲から避難されて、戦後にもよそ者として疎外された。戦争の残酷さや悲惨さを全く無関心で無知である戦後に生まれた世代に、はだしのゲンのまんがが、小さな軽くやさしく戦争と平和を描いている。
 2005年に少なくとも「はだしのゲン」の英語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、韓国語版、ロシア語版、スペイン語版、インドネシア語版、タイ語版、エスペラント版、ノルウェー語版、ポーランド語版が既に刊行された。
 作者の中沢啓治は、はだしのゲンを次のように談話した。原子爆弾を主題にしてまんがを描くのはしんどいが、子どもらは、素直に何が真実がを見極めてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラクスしながら、子どもが作品の中にはいっていけるように念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、原子爆弾とは何かをわかっていただけれ本望です。