3/25/2023

Outpatients at an improvised relief hospital at the Shinkozen elementary school. Mid-September, 1945. Shinkozen elementary school relief station, about 3 kilometers south of the hypocenter from Nagasaki Atomic Bomb.

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




3/11/2023

When the Hiroshima atomic bomb exploded, a 33-year-old army officer was exposed to the bomb on the second floor of a wooden structure about 2 km from the hypocenter and developed acute otitis media and acute mastoiditis.

 広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

 体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。


















  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。







 経過

 1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)