9/25/2021

A woman wearing a kimono about 1.2 km from the hypocenter of the Hiroshima where atomic bomb was exposed to her skin, and her clothes and straps and seams were affected by the burns.

 広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着た女性が被爆した。タイトな衣服とストラップや縫い目が、火傷を保護する効果があった。火傷は衣服が最もきつかった部位である右肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。下着の紐と着物の縫い目が右肩を保護した。暗色の着物により熱線が影響を受けた。被爆者が炸裂時に着用していた外衣である。着物の焦げた部分が落下している。柄の薄いロゼンジ部分は比較的焦げにくい火傷が軽傷であった。火傷は衣服が最も密着していた部位で発症した。袖が緩んでいた上腕部の中央部分に焦げが発生しても、その部位には火傷はなかった。

  爆心地から約1km以内を除き、衣服は火傷を防ぐのに有効である。日本の都市では、服を着ていない人が服を着ている人の6から7倍もの人が火傷をしている。体の部位の割合は服を着ていない場合の数倍である。衣服による保護効果が高いことがわかる。頭や手足の火傷の発生率は、覆われている可能性の高い体幹の火傷の発生率よりもはるかに高かった。

 原子爆弾の爆心地から約800m以内では、衣服による保護は不可能であった。それ以上の、距離に応じて防護効果が高まった。しかし、夏期で日中の気温が高かったために、被爆者の衣服は一般に薄手のものが多く、野外ではほとんど衣服を身につけていない人々も多かった。これらの要因が、原子爆弾による火傷の発生率を高めた。

 衣服の上から受けた火傷は、素肌の場合よりも程度が低い。多くの場合、衣服を身に着けない素肌は炭化するほどの重度の火傷を負っていても、同じ人の衣服を着た肌は、わずかな色素脱失や単なる色素沈着を示すだけである。これは、同じ距離で火傷した人でも同じように変化する。

  熱の吸収の法則に従えば、白い服を着ることが一番の防御となる。白い服を着ていた広島原子爆弾の被爆者約169人のうち半分以上が白い服の下で火傷した。色付きの服を着ていた被爆者約785人では75%近くが火傷を被った。この結果は、素材の色のついた衣服よりも、白い衣服の方がはるかに防御力が高い証拠を裏付けた。黒い服はよく焦げて、時には火事にもなったが、同じ距離で着ていた白い服は燃えなかった。模様のある衣服を着ていた場合に、衣服の下の火傷には、色合いの違いに応じた模様が見られることが多い。白地に暗色の斑点やストライプがあると、焼けたり焦げたりするが、。白い布はそのままで、その下の皮膚は火傷しなかった。

  厚手の服は薄手の服よりも防御力が高く、皮膚が焼けた部分には縫い目や折り目に焼けていない線が多い。着物の重い襟や、靴やサンダルの紐も同様の効果がある。ゆったりとした衣服の方が窮屈な衣服よりも保護効果が高く、窮屈な衣服の下はそのままでも火傷する。窮屈な衣服による影響が示された。


暗色の着物により熱線が影響を受けて火傷が重傷化した。

火傷は衣服が最もきつい肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。

9/18/2021

A male A-bomb survivor admitted to the Shinseizen Relief Station cried out with intense pain and high fever in his A-bomb wounds, accompanied by deep ulceration and necrosis around his lips.

 新興善救護所に入所した長崎原子爆弾に被爆した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫んだ。顔面から口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。傷口もわずかに湿らす程度であった。周囲の被爆者は次々に死亡して救護所外で死後処理されて、被爆者は常に死の恐怖を伴った。

 新興善救護所は爆心地から、南南東に約3kmの地点であった。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着した。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。近隣から数百人規模の救護隊が駆けつけた。3階建ての救護所には、連日に被爆者で溢れ、瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、不眠不休の救護をした。8月末までの約2週間に約8,000人が手当を受けた。被爆者は原爆症により泣きわめいた。医薬品が不足する中で、火傷もわずかな手当でそのままとなる。外傷もぶらぶらの状態となり、夏場で蛆虫が集った。

 長崎原子爆弾で壊滅した長崎市は、崩壊した長崎医科大学の代賛として市内最大の救護所となった。1936年に新興善国民学校が建てられた鉄筋コンクリートの建物は、原爆の爆風で窓ガラスが粉々になるも、倒壊を免れて救護所になった。それ以後6年間は長崎医科大学の臨時の特設救護病院となった。長崎市立新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。





9/11/2021

Lucky Girl, who had gone into shelter after warning and not come-out after all clear, emerges and ruins unhurt and wearing an incongruous smile.

アメリカ週刊誌「Life」(1952年9月29日号、26頁)は、「警報後に防空壕に入り、すべて異常なくなるまで出所しないで、無傷で不似合いな笑顔を浮かべながら幸運の少女が防空壕から這い出てきた。」と長崎原子爆弾に被爆しなかった幸運な少女と美化した。日本軍報道部員であったは山端庸介は、被爆を免れて瓦礫にいた少女に向かって、塹壕に入ってカメラに向かって微笑むように依頼して撮影した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日の早朝に、爆心地から南南東2.5kmの中町天主堂付近で少女を撮影した。原子爆弾の二次火災による焼失した地域であった。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、その後に自然発火して大火災に発展したと推定された。
 山端庸介ら報道部員は、8月10日午前3時ごろから、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で、8月12日までに爆心地周辺など約100コマを越える写真を撮影した。8月12日にフィルムを現像するも、写真の撮影を戦時中に守秘した。
 1945年7月に山端庸介は、福岡県福岡市の陸軍西部軍管区司令部に報道部員として徴用された。新型爆弾(原子爆弾)が広島に投下された8月6日に赴任した。8月9日に長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受けた。軍艦司令部から、対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を記録する指令されて、作家の東潤、画家の山田栄二、写真家の山端庸介ら5人の報道部員が長崎県長崎市に探索に向った。8月10日午前3時頃に、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着した。その地点で列車は不通になって、焦土と化した長崎市内の被災地を徒歩にて縦断して、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いていた。
 傷つき、ほこりをかぶった写真のコレクションが、遅延信管爆弾のような衝撃を日本に与えた。日本は初めて、広島と長崎に原爆が投下された人々に何が起こったのかを示す視覚的な証拠を目撃して、衝撃を受けた。アメリカで初めて出版されたこの写真集は、自らが原爆に巻き込まれるという非論理的な恐怖の中で、あるいは原爆に巻き込まれた被爆者の世話をする恐ろしい仕事の中で生きている全ての人々にとって、今日のニュース写真のような即時性を持っている。
 世界中の人々と同様に、日本人も原子爆弾による破壊の物理的事実、死亡者数の統計、きのこ雲の下で起こった物語しか知らなかった。しかし、例外を除いて、5人の日本人写真家らが、原爆投下後の恐怖の数時間に撮影した写真は、約7年間の占領期間中、厳格なアメリカ軍の検閲によって極秘にされた。その間に多くの写真ネガが破損・紛失し、戦時中の粗悪な薬品で処理されたネガは使用不可なほど劣化した。しかし、1952年の初め、アメリカ軍の日本占領が正式に終了する前に、日本の新進気鋭に富んだ出版社が、まだ残存している写真の収集を始めた。1951年9月8日の講和条約が1952年4月28日発効されて、アメリカ軍の検閲が廃止された。出版社は急いで写真集3冊及び26ページの原爆記録写真が「アサヒグラフ」週刊誌に掲載された。一夜にして完売し、出版社から新版の注文が入った。
 対日講和条約が1952年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。日本では、悲惨なの原爆写真が新たな反米主義の波を引き起こすと懸念された。しかし、原爆写真の教訓は、広島と長崎を引き起こした戦争を始めた人々に対する嫌悪よりも、はるかに深い衝撃であった。長い間封印された原爆写真を見た人々は、平和主義、中立、いかなる代償を払っても平和を求める心から新たな叫びを引き起こした。ほとんど一声に近い形で、朝鮮戦争とロシアとの侵略の脅威により忘れられていた。長崎の原爆死没者慰霊碑では、10代の被爆者が「あの日、焼け焦げた死体の中を這いずり回りながら、喉の渇きから水を求めて叫んだように、私は今、『平和、平和』と叫びたいのです」と、世界共通の平和を訴えた。
 原爆被害の世界初公開と誇った「アサヒグラフ8月6日号」から、岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』『原爆第1号ヒロシマの記録写真』。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)。1952年はアメリカ軍の検閲の解放により原爆報道が明けた年となった。(国際平和拠点ひろしま)