6/25/2022

A large number of atomic bomb survivors housed in the remaining buildings of Hiroshima City First National School were rescued on August 10, five days after the Hiroshima atomic bomb exploded.

広島市第一国民学校は、被爆直後から残存校舎の講堂・工業教室が、一般被爆者の臨時救護所として、1945年10月上旬まで使用された。第一国民学校に収容された多数の被爆者が8月10日に収容されて救護されていた写真である。校庭の一部は、9月10日まで仮火葬場として使用された。臨時救護所は10月初旬に閉鎖した後に、10月中旬までに教室を整備して学校を開校して再開して、臨時の仮教室として、講堂・工業教室・西校舎を使用した。

 広島市第一国民学校(現・広島市段原中学校)は、爆心地から約2.6kmに位置していた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下され炸裂した直後に、第一国民学校の北側木造校舎は東側校庭に全壊した。西側校舎・東側校舎(コンクリート造)・講堂などは、窓枠と窓ガラスが全壊したが、倒壊には至らなかった。倒壊した校舎や周辺の住宅からの火災の引火はなかった。1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市内の国民学校 約33校が救護組織と救急薬品を持つ救護所に指定された。

 第一国民学校は、原爆の炸裂時には職員約20人と学生約580人は校外に動員されていた。第一国民学校内には、学校管理2人、児童約6人、小使い1人のみが残存した。学外の教職員1人が即死、約9人が傷害であり、児童は約46人が即死、約50人が傷害、約2人が行方不明となった。学内では給食係の1人の女子生徒は倒壊した校舎下に死体が約1ケ月後に発見された。原子爆弾の炸裂時に、北校舎の倒壊して学内者は倒壊して一時的に校舎の下敷きになった。第一国民学校の原爆被災説明板は段原中学校正門横に建立されたが、2014年に広島市南区段原山崎の段原山崎第二公園に移設された。





6/18/2022

Large black rain droplets containing highly radioactive and muddy elements left traces of their water droplets on a white wall in Takasu, Furuta-cho, Hiroshima, approximately 3.7 km from the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。



6/11/2022

A photograph of the shadows of people and carts crossing the Yorozu Bridge, located approximately 880 meters from the hypocenter, burned into the asphalt by the heat rays immediately after the Hiroshima atomic bomb was detonated.

広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。

 熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。



6/04/2022

In June 1971, Akio Morii, the five years old second son of his father Kazuyuki Morii, who was exposed to the atomic bombing in Hiroshima City, became his second generation to suffer from leukemia and was critically ill at Hiroshima University Hospital.

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。