4/25/2020

When the cells of the bulb die due to radiation, the living part of the hair is gone and this hence results in loss of hair into the young victims of the atomic bomb in Nagasaki.

長崎原子爆弾に被曝した2人の少女と1人の男子の頭部が脱毛状態を九州大学調査団が視察した。原子爆弾の被曝による脱毛は、被爆後の約2週間頃から突発した。原子爆弾から放出された放射線は、細胞分裂が活発なほど大きく損傷する。大量の放射線を被曝して、毛を作る細胞が損傷を受けて、新しく毛を作れず、毛が抜ぬけて脱毛になった。髪毛けが抜け、吐血をした。脱毛部では毛髪の母細胞である毛母基、内毛根鞘、外毛根鞘が強く細胞障害された。脱毛の発症頻度は爆心地から1km内では広島約69%と長崎約32%,3km以上では広島約2%と長崎約2%であった。脱毛発現は、広島の原子爆弾では1km以内は平均17.2日、1.5km〜2.0kmは平均28.1日であった。脱毛部分は、頭部が最も多く、まず前頭部から後頭部と側頭部に及んだ。その他の眉毛、腋毛、陰毛は影響は少なかった。脱毛は、平均1〜2週間に進行して、生存者の多くは約12〜14週間で再生始めた。  
 原子爆弾を作るために慎重に濃縮されたウラン元素に、中性子との衝突により2つの副産物であるセシウムとルビジウムが生成される。セシウムとルビジウムから分離したさらに2つの中性子がウラン元素と衝突し、プロセスが繰り返されて、強力なエネルギーを発生する。光の2倍の速度で発生する原子核の分裂に由来する。連鎖反応からガンマ(γ)線の放射線を放出する。放射線は人体に侵入し、X線への曝露で細胞損傷を引き起こす。原子爆弾の火傷以上に、ガンマ線は被爆者の人体を損傷した。広島と長崎の人々は、放射線に暴露された。炸裂後の最初の2〜3日では放射線の影響はなかった。その後まもなく、爆心地から被曝距離に相関して原爆症を発症した。原子爆弾の被曝により、血性下痢・軽度の吐き気と嘔吐・食欲減少・歯茎、口、咽頭の炎症・12〜48時間以内の発熱・脱毛・小さな鮮やかな斑点・歯茎、鼻、皮膚からの大出血・白血球数の減少などの原爆症を発症した。


4/18/2020

1 Miracle of Hiroshima Atomic Bomb Victims was burned skin hanging from arms and back with struggling between life and death.

広島原子爆弾が炸裂した爆心地より約1,500mの広島市西白島町で被曝した。広島電鉄の職員であった吉川清は、夜勤明けで自宅の玄関に到着した瞬間に、広島原子爆弾による爆風と熱線を後頭部から背中に受けて自宅の玄関で昏睡した。重傷となり背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がった。広島市北部の可部町で約70日間にわたり療養した。その期間には、生死を漂うも微かに生命を保持できた。
 1946年春季頃から原爆症が専門である広島赤十字病院に入院した。約5年間にわたり、頸部、両手首、両肘などのケロイド拘縮に対して約16回もの手術を受けた。アメリカから広島原子爆弾の視察に来日したアメリカ有名雑誌のライフとタイムズの2人の記者が、1946年に広島日赤病因に視察に来て、原爆症の取材と撮影をした。「このような身体で生きているのは奇跡に近い。原爆生存者の中でナンバー・ワンである。"No.1 Miracle Atomic Bomb Victim"」と記者から雑誌社を通じて世界中に発進された。世界中に、ケロイドなどの原爆症の写真が世界中に公表された。その被爆者を原爆No.1第一号と呼称された。原爆症による限りない苦難が過去の長い病床生活にて切実に伝わった。
 広島と長崎の原子爆弾が炸裂した直後の被爆の実態が、世界で初めて総司令部(GHQ)に検閲を受けずに、ライフ英語雑誌により1952年7月29日号に公表された。世界初の英語版のライフ(Life)にpage19-25に原爆による被災写真の14枚が掲載された。原爆を投下したアメリカ軍に対して、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える被爆者の本当の実態写真が掲示された。
 「原爆一号」と「平和屋」と蔑視された活動から1951年8月に原爆傷害者更生会を結成し、1952年8月に原爆被害者の会を結成した。やがて他の被爆者組織の発足を促し、1956年5月に各組織が1本化した広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協・同年8月)の結成に繋がった。



4/11/2020

September 1945: US Navy lieutenant conferred with the head of the Saga General Hospital staff, about the emaciated Japanese refugee with flash burns from Nagasaki atomic bomb.

長崎原子爆弾に被爆して、佐賀総合病院に長崎市内から護送された男性の被爆者が、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。長崎原子爆弾が炸裂して、ちょうど1ケ月経過した1945年9月9日に、日本に駐留したアメリカ軍兵士が、佐賀総合病院に被爆者の実態を視察して情報収集した。ルイジアナ州ミタリアの米海軍中尉のトーマスMブラウンと佐賀総合病院の川田茂博士が、アメリカ軍が投下して炸裂した長崎原爆による閃光から熱傷を伴って衰弱した日本人被爆者の病状を診察と視察をした。その側で着物を着た看護師が診療の補助をした。原爆被爆者の凄まじい火傷によるケロイドや原爆症から、アメリカ軍側も原子爆弾による放射能による人体に及ぼす影響について痛感した。
 佐賀総合病院は、旧佐賀県立病院1910年10月に佐賀陸軍衛戌病院として開設された。1945年12月に厚生省移管国立佐賀病院として発足した。2015年4月に独立行政法人国立病院機構の佐賀病院に変革した。佐賀県立陸軍病院は長崎原爆の8月9日に長崎市内に救護隊第713号の派遣を命じた。数人の軍医からなるグループを編成して、内田部長を中心とする事務補佐員と16人の看護師が出張した。8月10日の午前4時頃に、グループは佐賀駅を出発し、午後に長陽に到着し、3つのチームに分かれて、長与駅、長与小学校、道の尾駅で医療救護を活動した。長崎市内の道の駅で約6日間の救援活動を行い、8月15日夜にから佐賀に戻り、日本が降伏した終戦日に佐賀陸軍病院に帰還した。終戦後も、救援チームは佐賀陸軍病院に多数護送された原爆被爆者の医療救護に従事し続けた。
 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎市内の膨大な市民らが被曝した。爆心地に近い長崎医科大学など、緊急的な救護所も直ちに稼働が困難となった。そのために圏域を越えて、長崎本線で被爆者が護送された。
 長崎と広島の被爆者計75人分のカルテを旧佐賀県立病院(現県医療センター好生館)で2011年に偶然に発見された。病状から被爆した克明な状況や死後に病理解剖した臓器の状態も記録された。原爆に関する資料は、第二次世界大戦後には連合軍進駐軍が多く原爆資料を没収された。詳細な記録と放射能による人体への影響に関する貴重な資料であ。75人は1945年8月14日から1946年1月まで、当時の県立病院内科を受診した16から59歳の男女である。妊婦もいた。カルテには脱毛や皮下出血などがドイツ語と日本語で記録された。放射能被害の特徴的な白血球の減少が認められた。カルテはB5サイズで「昭和二十年度内科、原子爆弾ニ依ル書類」と書かれた表紙のボール紙に229枚がとじられ、厚さは約6センチの診療記録である。色あせ、かすれて判読が難しい文字を佐賀医学史研究会が解読した。病院によると、カルテは原則、専用の倉庫でまとめて保管するが、県立病院に進駐軍の医師が複数回訪問した記録がある。2011年に看護師が内科の古いロッカーを整理中に偶然発見した。当時の医師が進駐軍に没収されないように別途に秘密裏に保管した可能性もある。


4/02/2020

One of the twenty-six women from the Greenham Common women's peace camp who cut their wire into the US military base, 1984.

グリーンハム・コモン・女性平和団体(Greenham Common Womens' Peace Camp)に参加していた1人の女性が、核兵器反対を訴えて、1988年にアメリカ軍基地にワイヤーをカットして侵入した。その時にアメリカ軍の警備隊兵士に逮捕されて、ワイヤーに絡まった女性の身体を引きずり出して連行した。イギリスのバークシャー郡のグリーンハム・コモンにある米軍基地に対して反核抗議活動をする拠点となった。多くの女性参加者は、訴訟、罰金、時には逮捕から投獄に直面した。グリーンハムの女性平和団体は、行動、ポスター、歌などを活用して核ミサイルに抗議して、社会的注目を集めた。アメリカとソビエト連邦の冷戦で、ヨーロッパが核兵器の脅威に迫られた。
 1981年9月にイギリス政府が、グリーハムにあるアメリカ軍基地に、核弾頭の巡航ミサイルを配備することを認可した。ウェールズから地球姓名女性の会(Women for Life on Earth)の36人が、グリーンハムのアメリカ軍基地に到着して、鉄柵の側に無期限の野営を開始した。その後に、1982年3月に世界の未来の子供の母親として、女性のみの抗議活動と宣言た。女性平和団体は1982年3月に約30,000人の女性が、アメリカ軍基地を取り巻いて封鎖した。1983年4月1日には、約70,000人の抗議者らが、グリーンハムから約14kmもの人間の鎖を形成した。1983年12月の約50,000人の女性の抗議活動は、アメリカ軍基地の柵の一部が切り取られて、数百人の女性が逮捕された。1987年12月の中距離核軍縮条約で巡航ミサイルは1991年に撤去されたが、女性団体の野営は、次のトライデント(Trident )におけるイギリスの潜水艦への核整備計画に対する抗議活動に向けて、グリーンハムで2000年まで抗議活動が約19年間も継続されて、国際的な女性平和活動に影響を与えた。