6/27/2020

A boy in Omura Naval Hospital from Nagasaki, Japan, whose second-degree flash burns were caused by the Nagasaki atomic bomb that exploded above Nagasaki on 9 August 1945.

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆した。上半身の表皮は、広範囲に浅く剥離した。大村海軍病院に8月9日に護送されて四病舎に収容されて、少年の受傷から2日目の1945年8月11日頃に撮影された。表皮が剥離してびらんした第2度の熱傷を患い、中等度の出血を伴った。リパノール肝油を塗布して、ビタカンフルや高張ブドウ糖駅を注射した。体温が8月26日に約36.4度であったが、27日から約39.0度の高熱になった。朝は約27度で夕方は約39度の弛緩性の熱型となった。9月4日に、白血球数は約4,000で、9月11日の午後4時20分に重症となった。その後の診療記録は不詳である。
 長崎原子爆弾が炸裂した放射性の熱戦により、長崎の少年の全身が火傷に被爆した。長崎県大村市の大村海軍病院に護送されて全身が3度の火傷の写真を撮影された。第二次世界大戦中に日本で起こった長崎原子爆弾の被爆者であり、少年の身体は、放射性の熱戦により、細胞は変性した第2度の火傷で覆われた。少年は放射線被性曝も伴った。長崎原子爆弾によっても、少なくとも約74,000人が死亡し、約75,000人が負傷した。別の原子爆弾はそれ以前の1945年8月6日午前8時15分に、日本の広島市で爆発した。 これら二つの原子爆弾の炸裂した後に、日本はアメリカ軍に降伏して、第二次世界大戦は終結した。
  原子爆弾の炸裂の瞬間の火球は数万度に達する。約0.2秒後には約7,700度から約3秒で熱戦は減衰する。原子爆弾の炸裂で約0.5秒まで火傷は最高度に達する。主に人体に熱傷を起こすのは赤外線であった。原子爆弾の熱線の照射を受けて、表皮組織が一様に浅く侵食されて、下層の健常部と境界が明瞭となる凝固壊死を伴った。表皮の傷害は2度以上で、組織が侵食されて凝固する凝固壊死、5度以上では黒焦げの炭化して、浮腫や浸出液の浸潤は乏しい。直接に人体に達した熱線により、第一次原子爆弾熱傷を被爆する。熱線等により、火災熱傷、焦熱傷、触熱傷、焔熱傷などにより間接的に、第二次原子爆弾熱傷を被爆する。特に第一次熱傷は、原子爆弾に特有の熱傷である。広島では爆心的から約1.0km以内、長崎で約1.5km以内では5度以上の熱傷を被爆した。それ5度以下は、広島で約3.5km、長崎では約4.0kmまで及んだ。  


6/21/2020

Certificates for victims from Hiroshima atomic bomb were issued and distribute by Ujina Police Station, which gave emergency food to them.

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
    御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。

6/07/2020

The ashes that rest eternally in a memorial tower for the dead in the Peace Memorial Park, most of whose ashes are of the Unknown Dead.

広島原子爆弾が炸裂した1945年から23年を経過した1968年にも、広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに虚しく納骨されていた。被曝した直後には、死体は物体のように扱われて処理された。広島市内は壊滅して大混乱して、処置する必要のある死体が数万も散在していた。焼け跡や川縁から軍隊等らにより、死体は運搬されて、約100mごとにまとめて集積された。警察が軍隊に付き添い検死するも、推定できるのは性別や年齢だけであった。氏名なども、わずかに瓦の破片の目印だけであった。原爆供養塔に集積した遺骨のほとんどが氏名不詳の無縁仏となった。アメリカ人捕虜や朝鮮人から中国人などの外国人も納骨されている。原爆供養塔の暗いコンクリートの地下室に、遺骨が密かに雑居している。供養塔内で偶然に身内の氏名を見出して歓喜しても、引き渡された遺骨は骨箱の中で小塊が当たり響いた。
 広島平和記念公園の北端にあたる慈仙寺鼻の川辺には多くの死体が打ち上げられて火葬場となった。一種の供養場となり、1946年には供養塔と納骨堂が建立されて、引き取り手のない無縁仏を納骨した。納骨堂が仮小屋で朽ち果て、1955年の円型古墳様のコンクリート製の原爆供養塔に移設された。さらに広島港から約3kmの似島の救護所の墓標であった千人塚の約2,000人の遺骨を1955年に発掘して、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
 原爆供養塔は、1955年年8月5日に広島戦災供養会が建立した。原爆供養塔のなりたちは、爆心地にの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれて、荼毘にふされた。氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するため、1946年に市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立された。その後10年経った1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納骨した。土盛り原爆供養塔の内部には、納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が納められている。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年 公開し、遺族を探している。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、2007年6月でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っている。合同慰霊祭は、1946年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれる。毎月6日には例祭がとり行われる。桃山時代の御陵を模した円形の土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている(直径16m、高さ3.5m)。 広島平和記念公園内に被爆者の遺骨を納骨することは不当とされて、原爆慰霊碑の石棺に過去帳の氏名のみが奉納されている。無縁仏となった遺骨のみが、原爆供養塔に納骨されている。