広島原子爆弾が1945年8月6日に落下して炸裂した直後には、被爆者の死体はように物体のように取り扱われて処理された。錯乱した被爆地の中で、死後処置しなければならない死体も数万人にも達した。軍隊や民間市民が、死体を焼跡や川辺から広場や路地に運んでは、丸太のように積み重ねて焼却した。その時に、その一部に警察が付き添って検死調書を作成した。性別や年齢などを推定できるだけであった。わずかな氏名が判明しても、瓦や髪の破片に記載して、死体の付近に置くだけであった。その後には焼却して処理された。供養塔に集積された遺骨も大部分は、氏名が不詳の無縁仏になった。そのほかに約2,000体もの氏名がわかった遺骨も残存していた。原爆供養塔のコンクリートの地下室に、骨壷が入った骨壷に積み重なった。1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めた。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、約824柱の遺骨は引き取り手がなく、原爆供養塔に潜在している。
1955年に、広島市は氏名の判定している遺骨の名簿を、新聞紙上に公表した。約70人の引き取り手が出現した。1968年には、広島東警察署で残存していた検死調書から、原爆供養塔内の納骨名簿、広島第1・2陸軍病院の被爆死者の名簿、戦災収容者名簿を、広島平和記念館で公開して、縁故者を求めた。1968年の遺骨氏名の公表で、広島原子爆弾が炸裂して23年間が行方不明の中学生であった息子の名前を発見して、母親は悲鳴を上げて慟哭した。引き渡された骨壷の遺骨は小さくわずかであった。担当の係官に、詰め寄り確認した遺骨の経緯を問い合わせた。1968年8月1日に、広島原爆供養塔の前で、縁故者に遺骨の引き渡し式典が挙行された。骨箱をひざの上にしっかり抱え込んで供養式をした。遺骨を拝受した縁故者は、多くの縁故者が目頭を抑えながら、慟哭した。