吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。
元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。
やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。
中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。
大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)
14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。