アメリカ軍による原子爆弾の影響調査は、日本側の調査とほぼ並行して、アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。日本側が設置した原爆被害調査特別委員会と同様に複数の専門家グループが派遣され、各分野で詳細な調査が行われた。アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。
最初に長崎にアメリカ軍のマンハッタン工兵地区特別調査団(the Special Manhattan Engineer District Investigation Group)が到着した。トーマス・ファレル准将を団長とし、医療チーム、技術チームを含む約30人の科学者から構成された。1945年9月中旬から10月上旬にかけて長崎で情報収集を行った。第1班の主な任務は、原子爆弾の影響に関する予備調査を行った。長崎を占領しているアメリカ軍の安全のために残留放射能のレベルを測定した。
次にアメリカ軍から長崎を訪れた調査団は、「ナブタック・ジャップ・チーム(Navtac Jap Team)」と呼ばれる海軍医療技術調査グループの一団であった。大村海軍病院を拠点とするこのチームは、9月下旬から11月下旬までの3カ月間、長崎原子爆弾の調査に従事した。軍医のスタッフォード・L・ウォーレン大佐が率いる調査チームは、原子爆弾の生理学的影響の調査を行った。調査チームに属する1つのグループは、長崎でもっぱら放射能測定に従事した。別の陸軍医療班は9月30日に長崎入りし、原子爆弾の医学的影響について調査した。アシュリー・オーガソン大佐は、陸軍医療班の計画責任者であった。イギリス軍も、1945年11月、原爆調査団を派遣した。広島、長崎の原爆の影響を調査し、1946年に報告書を発表した。
日本側の原子爆弾の影響調査は、1945年9月14日に日本の文部省が設置して、10月24日に初会合した日本学術会議の原爆被害調査特別委員会(Special Committee for Investigation of Atomic Bomb Damages)の調査が実施された。実際の作業は9月末から10月にかけて各分野で開始され、1948年3月までの3年間続けられた。しかし、本質的な研究のほとんどは1946年3月までに完了したようである。原爆の爆心地や輻射熱、残留放射線のレベルなどの調査もこの期間に終了した。影響調査の研究成果は、1951年8月に日本学術振興会から「総括報告書」として、1953年5月には日本学術会議から「原爆傷害調査報告書」全2巻(1,642ページ)として刊行された。進駐軍GHQは、原子爆弾の調査研究、成果の公表に、1945年12月11日に原爆災害調査特別研究委員会に通告して、さまざまな検閲と制限を加えた。