広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して広島市は一面にわたり廃墟となった。爆心地の付近の広島商工経済会展望楼を中心に撮影した360度のパノラマ写真である。爆心地を中心に南東方面(10月1日)と北西方面(10月5日)を撮影してモザイク状にパノラマ化した広島市内の全景である。
アメリカ合衆国の西南部の広大な砂漠にて、1982年に放射能強化型である中性子爆弾の実験が行われた。中性子による高い透過力で生物のみの殺傷能力を高めた殺人兵器であり、周囲への熱爆発の破壊力は低減させた。炸裂した地点では、爆発の硝煙が空を覆って、晴れた空は闇につつまれた。上空には多量の放射能を含んだ煙が立ち込め一面を焦がして、きのこ雲が浮上した。
広島爆弾調査報告(派遣調査団)1945年8月10日にで「本爆弾の主体は普通の爆弾または焼夷弾を使用せるものに非ず、原子爆弾なりと認む」と判決した。「本爆弾は、ガンマ線(X線)に相当に放射せられたるものと思考せらるる理由は、市中日本赤十字社に保管せられあるし写真感光板感光しあり」を原子爆弾の放射能とした。レントゲンフィルム(上2枚)と印画紙(下2枚)が真っ黒に感光していたことを根拠とした。
人類史上で初の原子爆弾がトリニティ実験で1945年7月に炸裂した。24時間後の空中写真である。爆心地では荒野の砂漠においてガラス状に溶解したクレーターが陥没した。その対照実験として、南南東の微小な陥没は、事前に100トンの高性能TNT爆を破裂させた。
長崎原子爆弾の炸裂の前(下写真)と後(上写真)を、米軍は航空写真により威力を分析した。爆心地は、長崎市街中心部から約3km離れた長崎市松山町171番地にあるテニスコート上空の高度503mであった。長崎市の中心部を南北に流れている浦上川に沿うグラウンドは簡易飛行場であった。爆心地となった浦上川の東部にある住宅密集地であった松山町の周囲は全滅した。
広島原子爆弾の炸裂の前(右写真)と後(左写真)を、米軍は航空写真により威力を分析した。投下目標点の相生橋から南東のXの近隣にある島病院の上空約600mで炸裂した。原爆ドーム(広島県産業奨励会館)からは南東に約200メートルであった。太田川は相生橋から下流には元安川(右)と太田川(左)に囲まれた三角州であった中島町は爆心地から約500メートル以内で全滅した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。アメリカ軍の戦略爆撃調査団は、長崎原爆の炸裂の前(8月7日左)と後(8月12日右)に、航空写真を撮影した。長崎市内を分割して、爆心地から100フィート(約305m)ごとに同心円を描いた。その分画内の被災状況を調査した。原子爆弾の威力を、モザイク航空写真から広島原爆と同様に対照比較して綿密に分析した。
広島原子爆弾が1945年8月6日に広島市内で炸裂した。アメリカ軍の戦略爆撃調査団が、広島原爆の炸裂の前後に、航空写真(左は前・右は後)を撮影した。広島市内を23区に分割して、その地域内の被災状況を調査した。原子爆弾の威力を、モザイク航空写真を炸裂の前後を対照比較して綿密に分析した。
人類史上で初めてのマーシャル諸島のエニウェトク環礁で、米国は冷戦でソ連に対抗するため1952年10月31日に水素爆弾を炸裂させた。65トンの核融合の水爆はTNT爆弾で10メガトンに相当した。エニウェトク環礁を壊滅させて、直径3Kmのクレーターが痕跡した。(世界最大の水爆実験はソ連のツァーリ水爆とされ1961年10月31日に100メガトンで広島原爆の3300倍に相当した。)
広島市に1945年8月6日に投下された特殊爆弾を、大本営調査団が初めて公式に8月10日に「原子爆弾」と判決した。8月8日の夕方に広島市の宇品船舶司令部から8月9日朝方に第二総軍司令部から情報収集した。日本の理化学研究所で原子爆弾を開発していた仁科芳雄博士らは、1945年8月10日に航本技術部の広島爆弾調査報告(派遣調査団)で「本爆弾の主体は普通の爆弾または焼夷弾を使用せるものに非ず、原子爆弾なりと認む」と判決した。
日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受諾した昭和天皇の詔書の玉音で正式に降伏した。米軍は8月28日には連合国総司令部(GHQ)を設置した。9月2日にミズーリー号で正式に降伏文書を署名した。その直後に9月6日午後11時からアンソニー・ウェラーは初めて欧米市民として原子爆弾を鹿屋空港から長崎市で取材ができた。GHQは9月10日の「言論及び新聞の自由に関する覚書」で日本全域を完全に報道制限をした。9月9日午前1時まで取材した約10,000語による全ての記事と資料がGHQにより検閲と没収された。
戦時に敵国の民間人や兵士の戦意喪失を目的とする宣伝ビラである伝単が米軍機から日本各都市に配布された。B-29爆撃機の2000機の爆弾に相当する原子爆弾を使用するため「日本國民に告ぐ!! "即刻都市より退避せよ"」を示唆した。広島・長崎の都市名もなく時期も明確でなく、憲兵と警察から伝単で検挙や摘発され、國民には無知な告知であった。
日本の同盟通信社は、特殊爆弾が炸裂した翌日である1945年8月7日にアメリカ合衆国のトルーマン大統領の公表を傍受した。「16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。つまり原子爆弾である。」極秘である敵性情報として、特殊爆弾は人類史上初の原子爆弾であることを入手した。
広島警備擔任司令部の船舶司令官は1945年8月7日に広島原爆を特殊爆弾と宣告した。「米機は遂に人道上許すへからさる特殊爆弾を以て我か広島を侵せり痛憤真に極りなし。予は広島警備任司令部を命せられ死力を竭くし戦災復奮を完遂せんとする。」佐伯文郎船舶司令官は、爆心地から4km前後離れていた宇品に駐屯して大きな被害を受けなかった陸軍の船舶司令部のみを広島警備本部として指揮を取った。
広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂し、8月9日に発行した広島の新聞である「中国新聞」は初めて新型爆弾攻撃を公表した。翌日の8月10日に広島原爆の調査団が「被爆は原爆」と断定して、大本営は米国政府に抗議した。
米軍は日本を占領した1945年9月より1949年10月までの約4年間は、米軍の民間検疫所(CCD: Civil Sensorship Detachment)により、日本の反米に関する全てのマスコミの情報を検閲して極秘に隠蔽をした。「夕刊ひろしま」1946年7月6日付に「世紀の記録写真」として広島原爆の被爆実態が世界で初めて地方紙で掲載された。
世界で初めてライフ英語雑誌にて検閲されていない広島と長崎の実態写真が1952年7月29日になって公表された。世界初の英語版のライフ(Life)にpage19-25に原爆による被災写真の14枚が掲載された。原爆を投下した米国に対して、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える市民に対して即時の対応を掲示した。
世界に向けて初めて広島と長崎の原爆における「頻ニ無幸ヲ殺傷シ・・・終戦詔書よりー」の実態写真がアサヒグラフの1952年8月6日号で特集された。日本が米軍の総司令部(GHQ)の占領で、原爆のあらゆる被害の残虐性は厳重に隠蔽された。日本が正式にサンフランシスコ平和条約で1952年4月8日に米軍から独立して公表できた。
広島、長崎両市の写真を特集するのは、はるかに越えた冷厳な事実ー即ち歴史が、それを命じるのである。この特集に見る無惨な姿それ以上のものが、やがて我々自身の生起せぬとも限らぬ、その心構えだけは、忘れてもらいたくないのである。
米軍は1954年3月1日に第5福竜丸が水爆まの死の灰に被爆するも、それ以後も水爆実験を強行した。1954年3月27日には17メガトン級(広島原爆の約1,300倍)の水爆実験を同じくマーシャル諸島のビギニ環礁で実施した。