長崎原子爆弾の被爆により19歳の少女は大村海軍病院に8月10日に護送された。右前頭額と頸部と右前腕と指の爆弾片創があり、その傷口の一部には柔らかい小枝が突き刺さっていた。背部と右膝、左足等には第2度の熱傷とびらんから中等度に出血した。口角の黒い斑点は、原爆症により口腔粘膜が壊死状態になった。在院して10日目の8月20日に原爆症が重度に陥り死亡した。
広島原子爆弾の爆心地から南約9kmの瀬戸内海の似島に、海外から帰還する陸軍の検疫所であった。被爆直後から似島臨時救護所が設置された。二人の被爆者は全身を重度の火傷に被爆して似島に護送された。その多くの被爆者は原爆症で死亡した。
長崎原子爆弾の炸裂して、翌日の8月10日に19歳の少女は大村海軍病院に護送された。熱線により、全身が火傷になり肝油を塗り包帯をした。そこから悪臭を放ち中等度の出血をした。頭髪も後ろ半分は焼け焦げていた。8月11日夕方から高体温と重症になり、8月25日には更なる発熱が継続して、8月29日に19日間の入所で死亡した。
広島原子爆弾による被爆者が、爆心地から北2.4kmに大芝臨時救護所となった国民学校の教室の片隅に1945年10月11日に母(31歳)と娘(12歳)が布団の下で寝込んでいた。その両親が周囲で見守っていた。医薬品は絶対的な不足で治放射線による原爆症に対して無力であった。
長崎原子爆弾の炸裂後に、48歳の女性が農業をして重度の火傷を被爆した。長崎市から北東約20kmも離れた大村海軍病院の8病舎に護送された。彼女は胸部や腹部を除いて顔面だけでなく、火傷で全身が腫脹した。頭髪も焼けて果て、瀕死の状態となる。
広島原子爆弾により西に約4.5kmの草津国民学校(現在の広島市立本川小学校)の校舎は全壊と全焼を免れて残存した。県立病院が全焼し焼失したため9月から草津国民学校が臨時県立病院となった。10月頃には西方の廿日市方面の被爆者も移送された。草津国民学校の校舎は約3,000人もの収容所にもなった。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂した当日の夕方頃から、応急修理された列車で道ノ駅からまず約600名の被爆者が大村駅まで護送された。直ちに大村海軍病院にトラックで午後8時から午後12時頃まで運送された。燈管のランプ下で寝たきりの少年被爆者は、前上方からの熱線による火傷と爆風による破片創さらに放射能を浴びていた。
広島原子爆弾の爆心地から東約700mの福屋百貨店はビル内部は焼け落ち外形だけとなった。広島市の中地区と周辺における被爆者が8月8日頃には収容されていた。江田島の暁部隊の若年兵士の救護班が8月7日から福屋百貨店にて被災者の救護をした。
長崎原子爆弾の炸裂後に、重度の火傷の被爆少年が長崎市から約20kmも離れた大村海軍病院に護送された。特に少年の両下肢にて、熱射線を受けた皮膚は黒化した。熱射を受けていない両膝は、白色化して明瞭に分離された。
広島原子爆弾の炸裂した直後から江田島から派遣された陸軍船舶司令部の暁部隊は西に約4.5kmの広島市草津に駐屯していた。救護活動した暁部隊の青年兵士は放射能による原爆症になると草津病院に入院した。臨時救護所として最も病院に類似した医療組織と医療材料があり、その他の多数の重傷な被爆者は床のマット上で収容された。
長崎原子爆弾の炸裂後に、重度のガラス破片創の被爆者が長崎市から約20kmも離れた大村海軍病院に護送された。ガラス破片が飛散して、背部の全体に突き刺さっていた。当時は、ほとんど麻酔も薬剤もなく、ガラス創部の摘出には対処できず、放置されていた。被爆者は、苦しみながら瀕死の状態であった。
広島原子爆弾が炸裂した直後から、爆心地から南約4kmの瀬戸内海に似島に臨時の救護所が設置された。以前には海外から帰還する軍隊の検疫所に被爆者が殺到した。重傷の熱傷を帯びた兵士は、腰巻きの皮膚は免れた全身の熱傷を被爆して救護された。
長崎原子爆弾の炸裂により、婦人は背中から下腿の後面を重度に熱傷した。長崎医科大学と附属病院は、爆心地から南約3kmにある長崎市興善町に特設された新興善国民学校を市内最大の救護病院として救援した。そこに護送された婦人は8月下旬には仰臥位のまま瀕死状態となった。
広島原子爆弾の炸裂後から、第1陸軍病院宇品分院には次々と多数の被爆者が護送された。他の救護所からも多くの被爆者らが移送された。炸裂して3日後の8月9日には宇品分院の講堂内にも被爆者が満杯に収容された。宇品分院は、当面は原子爆弾の専門病院として機能した。
長崎原子爆弾の爆心地から北東約17kmも離れた大村海軍病院に膨大な被爆者が救護された。48歳の女性は全身の熱傷から破片創さらに原爆症による内蔵出血により吐血した。原爆が炸裂後に救護されるも翌日1945年8月10日に間もなく原爆症死した。
広島原子爆弾が炸裂して、被爆者の救護や治療は、微力ながら被爆直後から始動した。軍関係者で、陸軍船舶司令部所属であり江田島で在駐した無被災のマルレ特攻船舶の暁部隊の若年兵士が炸裂直後から派遣された。その救護班を中心にして、翌日の8月7日には爆心地から約700mでビルの崩壊を免れた福屋百貨店にて被災者の救護をしていた。
長崎原子爆弾の爆心地から南約1kmの浦上駅付近では、炸裂した翌日の1945年8月30日の昼頃には、救護活動が開始されいた。竹を棒にした担架により、市民らも含めて数名で担いで、犠牲者を救護所まで運んだ。
広島原子爆弾の爆心地から約2.6kmにある第一国民学校(現・広島市立段原中学校)が救護所となった。原爆の炸裂から生き残った被爆者は、治療を求めて救護所に詰めかけた。膨大な被爆者を収容した救護所内で、家族が寄り添って被爆者を見守った。充分な治療もなく1945年末までに約14万人が原爆で死亡した。