広島原子爆弾の炸裂から、5年後の1950年にも、爆死地から北西約元広島球場があった広島市基町付近の地下2mくらいから白骨死体が発掘された。おそらく爆心地から数百メートルの防空壕のなかでは、被爆者が爆風と熱射にて蒸し焼きになった死体が地中で腐敗して白骨化したと想定された。広島市内の各地の土中にも、多数の被爆者の遺体の白骨が発掘されていた。
長崎原子爆弾の被爆者が、次から次へと大村海軍病院に護送された。鉄道沿線上に仮収容中の重症の被爆者も護送された。原子爆弾による死傷者の発生する3つの病因がっあった。第1は直後の爆風による倒壊や破片創による死傷者があった。第2は瞬間の高度閃光による直接の火災や熱傷による死傷者があった。第3にはガンマー等の放射能による不詳な原爆症の発症による死傷者があった。大村海軍病院の三病舎の中室には悲惨な重度の被爆者が収容されるも、3つ病因で生命を奪われた。
広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、3日後の8月9日から被爆者の捜索や救護のために、大勢の救援者らが周辺地域や関西地区などからも駆けつけた。がれきの除去や被爆者の救護から護送、死体の収容から火葬なども担当した。爆心地から260mと近隣の集合地でり、残存したビルである芸備(現広島)銀行本店とその隣の住友(現三井住友)銀行広島支店には救援者らが集合していた。
長崎原子爆弾による被爆者は、長崎市内の新興善国民学校特設救護所に護送された。爆心地から南約3kmの国民学校で、窓は吹っ飛び、焼け残った散乱した教室を活用した。婦人は全身に被爆した重度の熱傷で救護されていた。8月下旬にて熱傷だけでなく、放射能による原爆症により急変する症状に苦悩しながら瀕死状態となった。
広島原子爆弾の炸裂した直後には、各救護所において熱傷から外傷の手当が優先された。その後には放射能による原爆症により多量の被爆市民の生命が失われた。熱傷や外傷等もない無傷者には、全く未知で異様な原爆症が主体となった。爆心地から約1.3kmで被爆した少年が、脱力感や食欲不振から悪心嘔吐の主症状から、大芝救護病院の外来で、赤痢と類似の細菌による感染症と診断して、隔離した後に病死した。
長崎原子爆弾が炸裂した爆心地から約1.6kmで46歳の女性が重度の熱傷に被爆した。その直後の1945年8月9日に大村海軍病院に護送された。特に顔面の全体から頚部には卵大の組織の破壊から壊死が重度であり、黒色となり悪臭のある分泌液を伴った。さらに左前胸部から左側上肢の前面も熱傷を伴った。両方の前腕部と左膝にはガーゼ様の布で包帯された。しかし、白血球数が約1,600個/m3以下となり、全身状態はとても不良となり、被爆して約2ヶ月後の1945年10月15日には原爆症で死亡した。
広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、広島市内において膨大な犠牲者と被爆者が出た。広島市内において妊婦が、胎内で被爆した男子の赤子を出産した。被爆者から生まれた赤ん坊は痩せこけながら苦しみ泣き上げた。
ノーベル平和賞授賞式が2017年12月10日、ノルウェーの首都オスロで開かれた。核兵器の廃絶運動を展開してきた非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN: Internationa Campaign of Abolish Nuclear Weapons)」が受賞し、メダルと賞状が送られた。広島原子爆弾の爆心地から北東約1.8kmの陸軍第2軍総軍司令部で被爆した日系カナダ人のサーロー節子さんも登壇した。ICANのベアトリス・フィン事務局長は改めて核兵器の脅威と廃絶を強調した。ICANは世界各地の反核団体や広島や長崎の被爆者と連携して、核兵器の非人道性を訴えてきた。2017年2017年7月に国連が採択した核兵器禁止条約の成立に向け、主導的な役割を果などが評価された。
ICANは約100か国のNGO連合による核兵器廃絶に向けた活動もあり、核兵器禁止条約が国連で2017年7月7日に122か国の賛成で採択された。一方でアメリカやロシア、イギリス、フランスなどの核兵器の保有国や核の傘の日本などは条約に参加していない。
長崎原子爆弾の爆心地から南約3kmにある長崎市興善町に特設された新興善国民学校は市内最大の救護病院となった。長崎市の住民らは市内から膨大な被爆者を護送して収容した。2本の竹で担架を作り、頸部からの紐で支えて市内に向けて救護した。校門には、赤十字の旗を掲げた。10月6日には長崎大学附属病院に転換された。
広島原子爆弾の爆心地から西約4.5kmの草津国民学校(現在の本川小学校)の校舎は全壊と全焼を免れた。県立病院は爆心地から南方約1kmの広島市水主町(現在の加古町)に所在し、県庁と本川に挟まれた場所で全焼と全壊して壊滅した。9月から草津国民学校が臨時県立病院となった。当初は、救護隊の暁部隊員を収容した。軍の医薬品により治療して床のマットに寝かされた。
長崎原子爆弾の炸裂して、爆心地から約600mの近隣であった長崎医科大学附属病院は崩壊した。その直後から新興前国民学校に移転して仮収容所として早急に診療して、9月初旬の収容された被爆者たちがいた。10月6日には興善特設救護病院を長崎大学附属病院に転換して被爆者を診療した。長崎大学本部は、長崎商工会議、長崎経済専門学校から、11月上旬には新興善国民学校に移転した。現在は長崎市立図書館に学校は転換している。
広島原子爆弾の炸裂した直後から宇品の陸軍船舶司令部の暁部隊の青年兵士が教護活動した。広島市宇品に駐屯していた暁部隊は、直後からの救護活動で放射能による原爆症となった。きのこ雲の影響より8月6日の午後に北西部に放射能を含んだ黒い雨のどしゃぶりとなり被爆者は真っ黒となった。原爆症で被爆した暁部隊の青年兵士は8月8日には宇品の兵舎に収容されていた。