長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。