長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂し、長崎市内は壊滅した。翌日の1945年8月10日午前に、爆心地から南に約1.1kmで重傷の被爆者を運搬した。浦上駅の付近で、5人の救護隊員が被爆者の死体を、担架に乗せて肩にかついで運搬した。道沿いの建物はすべて崩壊して、その前方では、崩壊したビルが残存していた。母親と息子が手荷物を持って避難していた。
長崎では1944年9月に戦時防空救護対策本部が設置された。1945年2月に長崎県総動員警備協議会が創設された。救護体制は、長崎市医師会により編成された。救護本部から、新興善、勝山、伊良林、磨屋、稲佐の国民学校など約22カ所の救護所が指定された。長崎医科大学と三菱病院が救護センターを整備した。8月9日の長崎原子爆弾で、想定外の壊滅により、特に爆心地から東南約700mの長崎医科大学と多くの市内の医師会が崩壊した。爆心地から約1.4kmで損傷を受けた浦上第一病院が、残存して9月10日から医療を提供した。9月12日から長崎県警察警備隊と川南工業奉仕隊により、本原救護所が開設された。医療機能が残存した三菱病院本院が救護活動をした。
救護所に指定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校には直後から被爆者が集散した。爆心地の近隣の城山と山里の国民学校、長崎市立商業学校、道ノ駅付近でも救護活動が開始された。長崎市内からは周辺の大村海軍病院、諫早海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、長崎陸軍病院、さらに福岡、久留米などの陸軍病院が救護活動に参画した。