大村海軍病院に収容せる原子爆弾の被爆した患者の惨状として、32歳の農業に従事した女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。被爆して3日後の9月11日に四病舎に収容され入院した。右臀部肛門を距る約2cmの部位に、長さ約4cm、幅約2cmの創面があり、全身が衰弱した。25%のブドウ糖約400ccに、ビタミンBCを加えて注射することにした。9月21日に、赤血球沈降速度が一時間約100mmに昇っていた。それ以外は示してなく、記録された記事がなかった。
長崎原子爆弾の投下されて炸裂した直後に、長崎市の医療機関の活動は、長崎市医師会などの救援隊は爆心地周辺から医療救護活動を開始した。長崎市旧市街地の主な救護所は新光善小学校救護所と勝山小学校救護所であった。対岸地区の救護所は、稲佐小学校、三菱病院(本院)、御真寺であった。長崎北部では、平宗(現在の滑石一丁目)の民家が救護所に利用された。周辺では、ベテラン軍医の家族の救護が目立った。
長崎原子爆弾の炸裂からわずか1〜2時間後には、長崎医科大学の職員が長崎医科大学病院の裏山で、被爆した負傷者の手当てを始めた。浦上第一病院(神学校跡地)の職員は焼け残った一室で、三菱病院浦上分院の職員は銭座町の防空壕で救護した。4〜5時間後には、諫早海軍病院救護班が第一陣として伊良林小学校で被爆した負傷者の手当てを始めた。大村海軍病院の救護班、国立小浜診療所の救護班(小浜町救護班)も長崎市の爆心地に入り、救護活動を執行した。
長崎市は被爆直後から爆心地とその周辺で献身的な救援活動が行われた。しかし、その活動範囲は一部に限定された。空襲警報が頻発し、アメリカ軍の戦闘機が飛来するという最悪の状況下で、救援部隊の到着が遅れた。本格的な医療救援活動の開始も、長崎原子爆弾の投下翌日の8月10日にずれ込んだ。8月10日から、多くの海兵隊や陸軍の救援隊、各大学の救援隊を含む長崎県内外の救援隊が被災地に到着して、積極的な救援活動を行うことができた。日本海軍や日本陸軍の救援部隊の組織は、長崎県出身者が将校や衛生官として優先的に抜擢された。その指揮下で働く長崎出身者の兵士も入隊していたようである。壊滅的な被爆を受けた長崎市で活動するために動員された日本海軍と日本陸軍の救援部隊、大学の救援チーム、長崎県内外の救援チームが救護活動を展開した。