長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。