長崎原子爆弾の爆心地から、北に約700mの山里町の付近を1945年9月上旬に、配給の米の袋を持った2人の少女が帰宅していた。配布所はわずかしかなかったので、市民らは配給のために遠征した。配給された食料の袋を肩に、少女らは家路を急いだ。長崎原子爆弾の炸裂で生活困難となり、悲惨な状況、無一物の生活に陥った。まったく希望の見えない生活あった。長崎原子爆弾により、異常な臭いが立ちこめ、道ばたで死亡した被爆者、水を求めて水槽に首を突っ込んで死亡した被爆者、熱傷で出血した被爆者、水を求めて生きている被爆者が散乱していた。長崎市内では、異臭や死臭がたちこめて、家族を探し求める親族、裸のまんま生きている被爆者、うじがわいた被爆者、水を水を求める被爆者、夏でハエが異常に発生し真っ黒になる程ハエがたかり、異臭や死体臭が身についた。
長崎の原子爆弾は1945年8月9日に,
アメリカのB29が高度約9,000mから投下、長崎市松山町171番地の地上の約500mで炸裂して,
約10秒で中心地付近は壊滅した。約100分の1秒で,
核分裂の放射能を放った。約0.2で火球からきのこ雲が発生して、直径約310mもの巨大なきのこ雲が立ち上った。長崎の原子爆弾が炸裂時に発生した火球の中心温度は、約100万度,
1万分の1秒後で約30万度, この時点の火球直径は約30m, 約1秒後に約3000度/Cで直径は約400m,
約10秒後に消失した。消滅長崎原子爆弾はプルトニューム型の原子爆弾で、威力は広島ウラン型の約2倍であった。
少年少女らは学校で勉強も困難であり、運動もない。着る物も食料も満足になく、何もかも配給切符制度であった。白いや銀めしもほとんど食べれなかった。もちろん、甘物、肉類、チョコレート、アイスクリームなど全くない。まさに極貧の時代であった。児童達は爆撃など戦争の犠牲を避けて、親元を離れて田舎へ集団疎開して共同生活をした。
戦争が長期化するとともに国内では物資が不足し、国民生活は次第に圧迫された。物資の不足は深刻さを増し、砂糖、塩、米などは国の決めた量しか買えない配給となった。特に1945年3月から、アメリカ軍のB-29爆撃機による海上封鎖と機雷投下で、配給による統制経済も破綻して食糧難に追い込まれた。戦争の長期化に伴い、消費が統制されて、配給切符・通帳が無ければ物品を購入できない。玄米を普及させ、米は国策炊と楠公炊で吹き増した。1945年8月15日に戦争が終わっても、食料と物品難に苦難した。配給も遅配や欠配が続き、非合法な買出しや闇市で、法外な値段で必需品を購入するしかなかった。やがて1947年から配給制度が次第に撤廃された。
原子爆弾の被害は、当時の人口は広島約35万人, 長崎約27万人: 被爆死者数は広島約14万人, 長崎は約7万人: 負傷者は広島は約8万3千人,長崎は約7万5千人: 被爆戸数は広島は約67,400戸, 長崎は18,000戸の甚大な被害を及ぼした。