広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約490mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直していた。写真は広島市本土通りから東方を望んだ。左側の建物は、大林組広島支店であり、右側の建物は安田銀行があった。中央には、下村時計店とその後方に比治山の北端部が写っていた。
8月6日に本通りに入った岸田貢宜(29歳)は、「この世の地獄。うめき、苦しみ、助けを求める人達」を8月7日から爆心地から約500mの自宅兼写真館の跡付近から、日本軍の広島師団司令部の報道班員として写真を撮った。被爆後の市中心街を最も早く収めた原爆写真とされる。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が炸裂して約4時間後に、出張先の広島県高田郡吉田町から太田川の大芝土手に戻った。市内中心部から、膨大な被災者が市内中心部から列をなして避難した。頭髪はボウボウで火傷の顔は腫れ上がり、水疱がつぶれて皮膚が垂れ下がった。
大林組広島支店は、倒壊は免れたが、爆風で屋根が押し下げられ、アーチ窓も吹き飛ばされて、内部は全焼した。建物内の犠牲者は3人が即死して、約1ケ月後に死亡した。被爆後に修復して、引き続き大林組広島支店と稼働した。1951年から山口銀行広島支店となり、1975年から本通り支店となった。2002年に建物は解体された。原子爆弾の爆風の痕跡を留める換気窓のみが、平和記念資料館に保存された。
広島市平田屋町の煉瓦建て3階建ての安田銀行は、8月6日の原子爆弾の炸裂で、倒壊寸前となった。一部鉄筋コンクリートで原型を留めた。営業室にいた3人の死体が検死されて、広島支店全体でぬお人が死亡した。広島市中区大手町のみずほ銀行に、日本興業銀行・安田銀行原爆殉職者鎮魂碑が設置されている。