1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。
広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。