3/29/2020

Patient with purpura (Kyushu Imperial University), Nagasaki Atomic Bomb (distance unkown).

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して、九州大学病院に入院した。身体に紫斑病が出現して、原爆症が重篤となり、側臥位でベッドに横たわった。原子爆弾の放射線の被爆により、最も早期の原爆症は脱毛から始まり、紫斑は約1週間して出現した。同時期に出血性歯肉炎や口内出血も伴った。被爆後の約1週間から2週間に下痢症状が、3週間まで発熱と口腔内咽頭炎が生じた。多くの被爆者は約17日前後に死亡した。原子爆弾の被爆で、最も深刻な影響を受けた臓器は骨髄と腸粘膜であった。大量に放射線に照射された骨髄は脂肪と白く染色された細胞に置き換えられて、造血細胞の根絶した。放射線に曝された結腸は平坦になり、出血が出現した。病理学的所見では、急性放射線病または急性放射線症候群(ARS)と診断された。
 紫斑病は、血斑または皮膚出血とも呼称されて、紫色に現れた皮膚の斑点である。皮膚だけでなく、反転は口の内側の膜から臓器または粘膜にも出現する。紫斑は、皮膚の小さな血管が破裂して、血液が皮膚の下に溜まる。原爆症にて、血小板の減少、血管障害、凝固障害などの重篤な病態を呈する。身体無いに過度の出血をもたらす。「紫斑、すなわち皮下出血は、急性放射線疾患の症状の一つです。原爆被爆後数日から数週間にかけて、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、下痢を伴う血便、脱毛、紫斑または点状出血、のどまたは口内のただれ(鼻咽頭潰瘍)、歯ぐきの衰退および潰瘍(壊死性歯肉炎)を経験しています。これらの症状の発生時期はそれぞれ異なりますが、一般的に、重度被爆者においては早くから発生しました。 (日米共同研究機構、放射線影響研究所;1975年, 元ABCC(原爆傷害調査委員会 ;1947年)」


3/21/2020

The relief care had been provided at outpatient clinics to the survivors of the Nagasaki atomic bomb in the staff room of the Shinzen Zen National School. Emerging Zen Elementary School was dismantled and transformed into a relief memorial. (Nagasaki)

新興善特設救護病院における外来診察室は、かつて新興善国民学校の職員室であった。9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。1945年8月9日に長崎市へ原爆が投下されて炸裂した。8月9日被爆直後の原爆による甚大な被害により、長崎医科大学本部と附属病院が、新興善国民学校を仮収容所として患者診療を開始した。10月6日に、新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となった。11月上旬に長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に復帰した。
 1946年2月9日に、新興善国民学校の児童数約495名は、晧台寺に移転した。新興善国民学校を長崎医科大学附属第一医院として診療開始した。1947年4月1日に、学制改革(六・三制の実施)により、新興善国民学校は、長崎市立新興善小学校と改称した。1949年1月22日に新興善小学校は、大学校舎の裏手に仮校舎が完成して、晧台寺から移転した。1950年10月2日から、長崎大学医学部附属病院各科が10月6日までの4日間に、約6年ぶりに浦上の旧構内に復帰した。10月20日に、長崎大学本部が諫早から新興善小学校に附属外来診療所の一部を移転した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。


 1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校して、123年の歴史に幕を下ろす。2004年5月に長崎原子爆弾の最後の被爆遺跡が存続されずに解体された。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館した。被爆の遺跡の一部を複製して「救護所メモリアル」に再現した。
  救護所メモリアルは、その場所にあった新興善小学校では、かつて原子爆弾による多くの被爆者が救護を受けた。旧長崎市立新興善小学校の正門のみが僅かに残存した。長崎原子爆弾の象徴を残していた浦上天主堂も1958年3月18日から解体されて幻の人類遺産になった。長崎市内の原爆の遺跡は、数多く解体された。1980年代後半に、建物の老朽化で、多くの被爆建造物が解体された。爆心地の近隣の山里小学校の被爆校舎も、解体されて新校舎に変貌した。1992年には、旧長崎刑務所の浦上元刑務所の遺跡も、平和公園の改修で大部分が解体された。新興善小学校を、被爆関係者から救護所の現物保存による記憶よりも、校区住民が慰霊祭と平和学習の生活が優先された。
 原爆記憶は真実の象徴があれば、世界平和に向けて発信できる。特に視覚による画像は、戦争記憶を継続するためにもより発進することが重要となっている。戦争の視覚は、文字の視覚よりも、社会的な平和思想と戦争思想が到来して蘇生する。


3/15/2020

The Soviet Union made an underground nuclear test at Lake Chagan, Jan.15, 1965.

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験がされた。核出力は、TNT140Ktに相当した。チャガン実験により、乾燥床が炸裂させてクレーターとなり、チャガン川から流入してチャガン湖が形成された。クレーターは直径約408m, 深さ約100mに達して、チャガン川から流入する人工湖を形成した。
   アメリカと日本の両国で放射能が検出された。核実験から放射能が放出して、1963年の部分的核実験禁止条約(PTBT)に違反した。アメリカはソ連に核爆発を非難して、偶発的させた高収量兵器試験による放射能の発散と抗議した。PTBTは地下核実験を該当せず、核爆発は地下深くで行ったと反論した。大気中に漏れた放射性残骸の量はごくわずかであり、ソビエト連邦の領土制限外での放射性物質の降下物の可能性を否定した。その後のいくつかの相互交渉の後に、放射能の問題はそれ以上のソ連の説明は無く隠蔽された。
 セミパラチンスク核実験場は、かつて旧ソビエト連邦の主要な核実験場であった。カザフ共和国(現・カザフスタン)の北東部、セメイの西方約150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km2にも達する。1949年から1989年の40年間に合計で456回もの核実験場に使用された。核実験場は1991年8月29日に正式に閉鎖された。カザフスタン市民の放射能被曝による影響は、ソ連政府によって1991年の実験場の閉鎖まで隠蔽された。ソ連の最初のプラトニウム型の原子爆弾の核実験であるRDS-1は、1949年8月29日にセミパラチンスク核実験場行われた。周辺地域に放射性物質物が降り注いだが、カザフスタン市民への避難警告はなかった。水素爆弾は、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37などが試行された。セミパラチンスク核実験場の周辺住民を滞在させた人体実験となり、放射能被爆の被害を受けた。




3/08/2020

At the Hiroshima Communication Hospital, the window frames were blown off by the blast from Hiroshima Atomic Bomb.

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1.4kmにある東は白島町の広島逓信病院は、爆風で窓枠も吹き飛んだ。広島逓信病院にて、被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。広島逓信病院の眼科の勤務医が、左腕を被爆しながら医療関係者らと救護活動に専念した。翌日の8月7日早朝から病院に出勤した。相当の放射線を浴びて、ひどい倦怠感を伴った。8月8日から地方から救援の一部の医療者と合流した。一時的に緊急事態となり収容者の記録、姓名、住所、年齢も不詳となった。
 広島逓信病院では多数の被爆者が廊下の一面に横たわって呻いた。一部の被爆者は病院にすら入りきれずに絶命した。本来の2階の病室が、鉄筋以外は焼失した。8月8日には病院に、収容者の氏名の一覧表を掲載すると、肉親がなだれ込んだ。病床には各被爆者の氏名を枕元に置いた。多量の放射線を浴びた被爆者は、出血傾向となり体内出血した。8月9日には隣の広島逓信局に駐在していた江田島から救援する暁部隊の青年兵が、宇品から資材を運搬して、広島逓信病院の南側にバラックを急造した。出血傾向の被爆者をバラックに隔離した。バラックは炎天下では、灼熱するために被爆者は救護を求めた末に脱水死も誘発した。多数の息が絶えた被爆者の死体が病院の前に放置された。連日に庭の片隅に死体を運搬して、焼け跡の残木などを集めては火葬して死体処理をして、白骨を土中に埋めた。一部の遺骨は、薬びんに入れては、遺族に引き渡した。
 常磐橋を越えると、満潮で水流が止まり多数の被爆死した死体が川面に浮いていた。饒津神社の鳥居の脇に、死体の一部は丸太のように引き上げられた。悲惨な倦怠感を伴い、死に無関心となっていた。戦時になると人間性も失って、失神状態となり、限度を超えた悲惨や残酷も、何らの虐待や虐殺を感じなくなっていまう。


3/01/2020

A family set a gravepost on the rubble that burned and burned down houses in the Nagasaki Atomic Bomb.

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分頃に投下されて炸裂した。長崎市内は、ほとんど壊滅状態となった。原子爆弾による爆心地からの激烈な爆風、熱射、放射線の暴発により、ほとんどの長崎市の市街地は炎上して壊滅した。家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。散乱する多数の白骨の中で、肉親の遺骨も同定が困難であり、せめて居住していた家屋の付近に一つの木製の墓標だけを土中に立て掛けた。原子爆弾の被爆後から長崎市内の各地に原子爆弾で被爆死した被爆者を弔う致し方ない粗末な墓標が見られた。被爆後の49日頃には慰霊の法要を行う地区もあった。


 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に、原子爆弾による被爆死した不詳や行方不明の遺骨、故人が同定されるも引き取り手がない無縁死没者の遺骨を奉納している。1947年に城山町の有志により、駒場町に「原爆殉難死者納骨堂」が設置された。爆心地の周辺に散乱した多数の被爆死者の遺骨を収集し奉納した。その後に長崎県の各地などに散在した無縁仏の遺骨を引き取った。1958年に長崎市が岡町に「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」を建立した。1994年に平和公園の工事により、岡町に現在に至る新たな長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に建て替えられた。
 

2/22/2020

The victims from Hiroshima Atomic Bomb were transported and rescued at their Relief Center on August 12 within the bamboo shoots.

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂してから、広島市三滝町に臨時救護所が設置された。8月12日に竹やぶの中にも被爆者が搬送されて救護されていた。救護所、応急処置所、避難所、収容所など機能を特定するのは困難であった。三滝町は、広島原爆の爆心地から約2.5kmに位置した。三滝橋付近には広島第2陸軍病院の三滝分院が、8月6日に設営されて約700人の被爆者を収容していた。爆心地から約半径2km以内ではほとんど家屋が全焼していた。多くの被爆者が道路の両側にいっぱいに倒れて原爆死していた。しかも、死体が約70cmの高さで、両脇に積み重ねられた。どうにか動ける被爆者たちが病院や救護所を求めて避難された。その途中に力尽きて倒れて死亡した。死体が道を塞ぎ通れないため、人々が死体を両側に寄せて積み重ねた。やっと大八車1台が通るほど道幅が狭くなった。
 25歳の女性は、8月6日の夕方に地獄の広島市内から歩けぬ人々を励ましながら、やっと三滝近くの線路土手にたどり着いた。三滝橋を渡ると、太田川放水路の南方の猛火の町と太田川の死体は散乱して漂っていた。己斐方面から歩いて来た男性がそばに来て「広島は大変なことになったけども、助かった今の命をどんな時にでも大切にするんだよ」と私達を励ました。「これをあげます。」と云って、私の水筒にサイダーを入れかえてもらった。死体を前に生き地獄で見た男性からビスケットもたくさんもらった。人情に唯々嬉しく涙こぼれてお礼を申し上げた。広島原爆で亡くなられた人々に合掌した。


2/15/2020

A 19-year-old nurse pulled a large glass from the face of a female student who was burned by the Nagasaki Atomic Bomb and put a bandage on to stop bleeding.

日本赤十字社の19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下して炸裂した1945年8月9日の翌日の9月10日に長崎市内で長崎原子爆弾を被爆して負傷した被爆者を救護した。挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きいガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。看護婦は、医師1名と16人の看護婦と約3人の衛生兵で、長崎の隣県の佐賀市の陸軍病院から救護に派遣された。汽車で、佐賀駅を出発して、長崎原子爆弾の爆心地から北に約3.5kmの道ノ尾駅に9月10日のお昼頃に到着した。直ちに道ノ駅の臨時救護所で診療の補助と療養の世話をした。道の駅の周辺には、横たわった重度の被爆者が散乱していた。白衣に着替える間もなく、制服で救護をした。次々にガラスを抜いたり、チンク油を塗布した。しばらくすると医薬品が枯渇した。軍の命令により、8月15日の終戦まで救護活動を継続した。原爆症により、半年後に白血球が約2,000まで減少した。救護をしていた医療関係者は原爆症を患った。






2/01/2020

An aged man receiving treatment to his head at a first-aid hospital set up at the Shinkozen national school in Nagasaki city.

長崎原子爆弾による頭部の火傷を受けた被爆者は、1945年8月下旬に長崎市興善町の新興善国民学校に特設された救護病院で加療を受けた。新興善国民学校は、爆心地から南に約2.9kmに位置した。男性被爆者である老人は頭部の火傷にチンクオイルを浸したガーゼをピッセット塗ってもらった。新興善国民学校は、原爆による火災を免れて新興善国民学校救護所となった。8月11日には、針尾海兵団より救援隊が到着して、そらに佐世保海軍病院武雄分院からも医療隊が到着した。壊滅した長崎医科大学を代賛して、8月16日に新興善特設救護病院となった。さらに、10月6日から長崎医科大学附属病院となって被爆医療の主軸となった。
 長崎市に投下されて炸裂したマットマンと呼称された原子爆弾は、広島市に投下されて炸裂したリトル・ボーイより破壊力が増大していた。長崎市内の盆地状の地形により、被害地域は限定されたが、被爆死は約7万人にも達した。長崎市内の膨大な被爆者に対する救護活動は、長崎原爆が炸裂した翌日の8月10日から始動された。わずかに生存していた長崎医科大学と浦上第1病院の医師・看護師・学生などが参加した。建物が残存した新興善、勝山、伊良林などの国民学校に臨時救護所が設置された。そちらに大村および諫早の海軍病院、三菱病院、長崎県内の医師会なども救護活動に参加した。救援列車が復旧してから、沿線の大村海軍病院などの救護機関に護送された。しかし、被爆者の救護活動は、1945年10月に打ち切られた。
 ハリー・トルーマン大統領は原爆被爆者を調査し、放射線被爆が彼らの健康にどのように影響したかを研究することを担当するる原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)の設立を1946年11月に署名した。1948年10月に長崎ABCCは新興善小学校内に設置された。ABCCは、被爆者だけを優先する責務を回避して、医療は提供せずに健康診断の実施に限定した。それ以後は、被爆者らは1957年に原爆医療法までは自己負担と自己責任を強いられた。


1/26/2020

At Hiroshima Teishin Hospital, the hairs of two middle school patients had been protected by a hat remains, while that below the line hangs down in burned strips from Hiroshima Atomic Bomb.

広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の患者は、中学生のように見える。 帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
 鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
 広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
 蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社, 1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina University Press, 1955, 約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。


1/19/2020

A soldier reciving medical treatment to his seared back, burned by heat rays at Fukuya Department Store, a temporary accommodation center.

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



1/12/2020

Burns on her back differ according to unevenness, Late September, Japan Red-Cros Hospital, Hiroshima.

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。9月下旬の広島赤十字病院に救護された。発後数時間以上生存し、医師の診察を受けた患者の火傷の発生率は95以上%と報告している。
火傷は熱線に直接に面していた部分に主に生じて、爆心地から約3.5km離れたところでも、皮膚の部分には火傷を受傷した。原子爆弾の炸裂と同時に爆心地の温度は摂氏約100万度を超えたた。空気中に発生した火球は、約1秒後には最大直径約280mと暴発した。火球から四方に放出された熱線は、炸裂後の約100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は、瞬間に摂氏約3,000から4,000度にも達しまた。原爆からの強烈な熱線によって焼身された被爆者は重度の火傷を受傷して、膨大な人が被爆死した。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡状になった。樹木への着火も多く、爆心地から約3km以内では木材、樹木、電柱などが黒焦げになった。熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、皮膚面に不規則な隆起を生ずるケロイド状態になった。被爆後約4ヵ月頃より発生し、約6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から約2km前後で被爆した人に多かった。
 広島日赤病院は、爆心地から南方約1.5kmに設置されていた。広島原子爆弾の落下から炸裂によって、鉄筋コンクリート3階建であった日赤病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して全壊した。当時は日赤病院の一部は 広島陸軍病院分院としても併用された。地下室に保管していたレントゲンフィルムがすべて感光化していた事から、特殊爆弾が原子爆弾であることが立証された。被爆した直後から 生存した医師・看護婦は、救護を求めて集合してきた被爆者にわずかな医療機材を用いて診断と治療を続けた。広島日赤病院は、広島原爆の投下と炸裂により壊滅的な被爆を受けた広島市にて、倒壊や焼失を免れた数少ない医療機関の1つであった。被爆直後から負傷者が殺到した。 設備や備品は破壊され、薬品も治療材料も直ちに底をつく状況で、生存した医師や看護婦たちは、昼夜を分かたず被爆者を救護した。

1/01/2020

A pall of smoke lingers over this scene of destruction in Hiroshima, Japan, on August 7, 1945, a day after the explosion of the atomic bomb.

広島原子爆弾の炸裂による火災が、広島市内の各所で発生した。火災の炎が広範囲に広島市内を襲った。爆心地から半径約2km以内のコンクリート製のビル以外は、跡形もなく燃え尽きた。広島原爆が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した被爆当日の午前10時頃から午後15時頃まで火災がピークに萌え続けた。火災の終焉には、およそ8月8日まで約3日間を要した。8月7日に広島市の現本通りから西方を遠望すると、煙が以前として残って煙を吐き出した。中央右より後方に原爆ドームとなる産業奨励館が映し出された。破壊された広島市に白い煙がくすぶった。広島市で最もにぎやかな通り、本通は一瞬にして破壊された。広島原爆の爆心地の近くの原爆ドームは、残っている建物の間に見れた。残存したビルは、安田銀行の広島支店、大林組の広島支店、三和銀行、住友銀行、中央芸備銀行である。鉄筋鉄筋コンクリートの建物を除き、本通商店街の裏地にある店舗は爆風と火災により完全に破壊され焼失した。鉄骨とコンクリートの建物はほとんど爆弾に耐えたが、ガラスと木などの備品は溶けて燃焼した。レンガ造りの建物は大きな被害を受け、木造の建物は火事で完全に焼滅した。 
 広島市は当時には約35万人が居住して、1945年12月末までに約14万人が原爆死した。被爆により人口は約8から13万人と激減した。爆心地から半径1.5kmから2kmの木造の建物は、ほぼ全壊して全焼した。2kmから3kmまでは、木造の建物は、ほぼ半壊と半焼した。被災戸数は、約6万7,860戸全壊と全焼を免れたコンクリート製のビルは、外壁だけでを残して内部は焼き尽くされた。
 アメリカ軍の「エノラ・ゲイ」と故障されたB-29スーパーフォートレス爆撃機は、1945年8月6日早朝にテニアン島から離陸し、約4,000kg(8,900 lb)の「リトル・ボーイ」と呼称されるウラン型原子爆弾爆を運搬した。午前8時15分に、リトルボーイは広島市の上空の約9,400m(31,000フィート)から落下して、57秒間はパラシュートで自由落下した。一連の複雑な炸裂は、地上約600m(2,000フィート)の目標の高度で炸裂した。炸裂の瞬間に、小さな爆発物が約64kg(141lbs)のウランで超臨界量を越えて核分裂を引き起こした。その約64kgのうち、わずか約0.7kg(1.5lbs)だけが核分裂し、その質量のうち、わずか600ミリグラムがエネルギーに変換された。その核分裂が、数km内のすべてを焼き尽くす爆発的なエネルギー暴発した。猛烈な火災が覆って、すべての生物に致命的な放射線を浴びせた。


12/27/2019

A Japanese family eats rice in the crude shack they built from the wreckage left on the spot where their home once stood in Nagasaki, Sept. 14, 1945.

1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した長崎原子爆弾で崩壊した長崎市内で、残存したその場しのぎの家で、被爆者の家族が暮らした。家族は、長崎原子爆弾による破壊が引き起こされる前の家があった場所に戻った。1945年9月14日に瓦の真ん中に、家族は粗野な掘っ立て小屋の粗野な小屋を作った。 母と息子はいつもの粗末なご飯を食べた。原子爆弾による被害により、爆風と火災によるすさまじい破壊が、瞬間的に生じた。即ち、広範囲の建物が破壊されると同時に、火災が発生した。長崎原爆における建物の全壊全焼の範囲は、爆心地から2km以上離れた地点にまで及んだ。
 長崎原爆の被害は、爆心地から約800メートルまでのほとんどすべてが完全に破壊された。長崎県の報告によると、「人間と動物は爆発地から約1km以内はほぼ瞬時に死んだ」。約2.4km以内のほとんどすべての家屋が破壊され、紙などの乾燥した可燃物が即座に爆破され、爆心地から約3km離れたところまで到達した。長崎市の約52,000戸の住宅のうち、約14,000戸が破壊され、約5,400戸がさらに深刻な被害を受けた。無傷で残存した家はわずか12%であった。暴風雨がなかったにもかかわらず、市内全体で多数の二次火災が発生した。消火活動は給水管の破損により妨げられ、約6週間後も長崎市は水不足に苦しんだ。9月中旬になっても、死と腐敗の匂いが場所に広がっていた。長崎原爆の被害は不詳である。推定値は、最初に約40,000人が原爆死し、約60,000人が被爆した。1946年1月までに、死者数は約7万人にも及び、最終的には5年以内に死者数は約14万人と2倍に達した。



12/21/2019

After the explosion of the Hiroshima Atomic Bomb, many Japanese soldiers had evacuated to the remaining concrete Hiroshima Station premises that did not burn down.

広島原爆の炸裂後から、広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。構内から南側の駅前広場には、全身火傷や裂傷などや原爆症で約2,000人以上もの被爆者が救護を求めて押し寄せた。翌日の8月7日には、広島駅は軍用線であった宇品線から次第に復旧して、8月8日に山陽本線が部分開通して、列車は被爆者を運搬する救援列車と物資の搬入列車となった。
 広島原爆の爆心地から約1,850mの広島市松原町の広島駅は、窓枠などは爆風で吹き飛ばされた。広島原爆の爆風は、増築したばかりのの待合室をもぎ取り、屋根は押し下げれられた。爆風後の熱線等により、火災で屋根は抜け落ち内部は全焼した。広島原爆によって、建て増し部分の待合室が倒壊し、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡からは後日、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒の約20人をはじめ78人の遺体が見つかった。広島駅の職員も約11人が原爆死した。広島駅のホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、広島市光町の東練兵場の方に走って逃げた。広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になった。
 広島駅は日本で最初のコンクリート駅として、1922年にモダンな駅舎に建て替えられた。山陽本線をはじめ、呉線、芸備線、宇品線が発着し、年間乗降客は1941年には約1,000万人を越えた。原爆投下当時、広島は産業的にも軍事的にも重要な都市であった。周辺に多くの軍隊の陣地があり、最も重要なのは広島城にあった南日本全土の防衛を指揮した陸軍第2軍司令部であった。広島市は日本軍にとり小規模な補給基地であり、大量の軍事備品も備蓄していた。通信センター、海運の重要な港、軍隊の集会場所でもあった。戦争産業の蜂の巣であり、飛行機やボート、爆弾、ライフル、拳銃用の部品を製造していた。当時に空襲による被害を受けていなかった京都に次いで日本で2番目の大都市であった。家は瓦屋根の木材で作られ、工業用建物の多くは木枠の周りに建てられて、広島市全体は、火災による被害を非常に受けやすくなっていた。広島の人口は、戦争の初期に約381,000人を超えていたが、原爆投下の前は、日本政府の命令による体系的な避難により人口は約340,000から350,000であった。1945年12月までに、広島市人口の半数弱の約140,000人が原爆死した。


12/14/2019

A number of atomic bomb deaths were engraved on the tombstones of atomic bomb survivors by the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



12/07/2019

At the Kusatsu rescue hospital in Hiroshima city, the pathologic group performed an autopsy on the dead body of an Atomic bomb deseae on October 13, 1945.

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。


11/30/2019

At the Ohshiba National School relief station, many of the survivors who died in the Hiroshima atomic bomb were cremated in the schoolyard. White bones were buried in the soil, and the remaining white bones were scattered around them.

広島原子爆弾の爆心地から約4.7kmにあった大芝国民学校(現在の広島市立草津小学校)は被爆した直後から臨時の救護所に転換した。広島原子爆弾が炸裂した1945年8月6日当日から引き続いて被爆者が護送されて、重篤者は収容された。8月中には約3,000人も越えた被爆者が集積した。治療も十分にできずに、多数の被爆者が被爆死した。多数の引取もいない死体は、草津国民学校の校庭で火葬をして白骨を校庭の土中に埋葬した。火葬場の周囲には、埋葬して残存した白骨が火葬場に散乱していた。
 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂により爆心地の周辺は壊滅した。広島市内には瞬時に原爆死した被爆者の膨大な死体が散乱した。たとえ生存した被爆者には、原子爆弾から放射された猛烈な爆風や灼熱の熱線や広範囲の火災などにより、火傷や外傷などの負傷を伴って、短期間に甚大な被爆死を発生した。さらに、数週間以内に原子爆弾からの放射線の被害による被爆死が激増した。
 その死体の処理のために、生存した身内や関係者らが、広島市内の至る所で火葬して白骨化した。その周囲から行方不明の多数の白骨を集積しては土中に埋葬した。特に臨時の救護所や残存した学校や病院の付近では、被爆病死した死体を処理する火葬が連日に舞い上がった。黒こげ胴体だけの死体の判別は、ほとんどできなかった。学校の校庭の片すみを掘って、焼残りの材木を集めて火葬にした。臨時火葬場は超満員の状況であり、それに必要な燃料がなくなると、保管していた天井板まで使用して火葬作業を続けた。収容した被爆者が次々に被爆して、それを火葬する人手もたらないほどであった。 
 大芝国民学校は臨時の特設救護病院となった。広島原子爆弾の爆心地から北 2.4kmにあった。校舎が大破して、一部は焼失した。校庭に避難者があふれたため、臨時救護病院になった。8月6日は周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、救護者は引き返して再び任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいたが、その人たちの専門を越えた不眠不休の医療活動が、切実に必要とされた。


11/20/2019

A woman who suffered severe burns from the face to the entire upper limb from the Hiroshima atomic bomb was bedridden in the first national school.

広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
 1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
 国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。


11/15/2019

A rescuer took care of a girl who suffered from the Hiroshima atomic bomb, who was lying on the truck bed and tried to eat rice ball.(Hiroshima)

1945年8月15日午前8時15分に広島市内に原子爆弾が投下されて炸裂した。2日後の8月10日に、爆心地から約760mの上流川町(現 胡町)にて、救援隊員が被災した少女を介抱した。トラックの荷台に横たわる少女に握り飯を食べさせようとした。救護所に収容しきれない被爆者は、トラック、列車、船などで遠方の市町村に護送された。座り込んだ救助隊員が、頭の近くに置かれたボウルからおにぎりを少女を食べさせようとした。


 上流川町で広島流川教会は、旧1886年(明治19年)より布教を開始した。太平洋戦争末期には、軍服仕立て工場になったり、牧師も工場に徴用された。広島原爆で、礼拝堂は残骸だけ残して悉く灰になった。会員は死者約75人に昇、生存者約35人で再建に取り組んだ。広島流川教会の礼拝堂の前にかかげられている黒焦げの十字架は、「被爆十字架」と呼ばれ、広島原爆の被爆によってほぼ炭化した木材となった。1995年、被爆50年を記念して前会堂正面に掲げた。
 戦後に、谷本清牧師を中心にして(谷本清平和賞を創設)、アメリカの教会・慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動、日本全国に訴えて回った原爆乙女渡米治療運動に熱心に取り組んだ。精神養子とは原爆で身寄りを失った子供たちの養育を、アメリカ人家庭が手助けする「親子縁組」である。アメリカに1995年治療に渡った原爆乙女約25人の内、1人は手術台の上で、2人は帰国後に悲惨にも死亡した。ヒロシマ・ピースセンターの設立して、1971年に教会は上幟町近くに移転した。

被爆十字架

11/04/2019

Keloids and ulcer have developed on the back and arms of this 18 years old, who suffered burns in Hiroshima 1.6km from the hypocenter.

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


10/20/2019

At the Hiroshima atomic bomb, the child was injured in the head, received care from her mother and nurse, and stared in fear.

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


10/02/2019

At the moment of the Nagasaki atomic bomb exploded, the mushroom cloud was filmed on a color film for about 3 minutes 50 seconds.

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



9/29/2019

The Hiroshima Red Cross Hospital conducted outpatient treatment for the A-bomb victims of the Hiroshima atomic bomb, which was flooded with only about 6 doctors and about 10 nurses.

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。



9/22/2019

At the Shiroyama National School, which is closest to the hypocenter of the Nagasaki atomic bomb, about 133 workers were killed in the bombing and only about 19 survived.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
 国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
 長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
 旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。




9/14/2019

About two months after the Hiroshima atomic bomb, the mother ran to Ohshiba National School with her serious baby, who had already died without breath.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息がなく死亡していた。その男児の死亡に泣きながら悲嘆した。
 大芝国民学校は、爆心地から北西約2.4kmに位置して、爆心地に向けて縦に建った南側の新校舎のみが倒壊を免れた。焼けなかった学校や病院は仮設救護所となり、被爆した多くの市民たちが救護と治療に訪れた。被爆直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到したために、8月7日から臨時救護病院を開設した。8月7日になって火の勢いが鎮まると、救護に当たる者が引き返して再び救護の任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人らが、専門領域を越えて不眠不休の救護活動を行った。1941年の国民学校令で、尋常小学校から国民学校に改称された。教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき皇国の道を修練させた。



9/07/2019

Injured victims were transported to the suburbs by truck, afternoon of August 6, 1945 at Furuichi-cho, Asa County.(Hiroshima)

1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して無残であり、鬼気が迫った。すぐに被爆者を乗せたくても全く余地がなく次のトラックを待つように説得するのが悲惨であった。その後は時折にトラックが来ては、被爆者らを広島市北部の方に運んでいた。それでも膨大な被爆者にはどうにもならず、多くは放置となり、うめく者、水をくれとせがむ者など、この世の地獄図になった。広島市内の中心部から、トラックの荷台に乗って避難する被爆者らに、歩いてくる多くの被爆者が後から後からと続いた。
 その当時は被爆者は原子爆弾の放射能のことは全く知らなかった。トラックで運んだ被爆者達も何とか助かったと思うも、恐らくはその多くの被爆者は助からなかった。各運送会社は、トラックを約20台を保有していたが、ガソリン車は約6台ほどで、後は木炭車であった。その頃はトラックを、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていた。最初は、戦場への兵士に送られる若年の男性が優先的に救護所にトラックで運ばれて治療を受けた。当初に老人や女性、 子どもさえもトラックに乗せてもらえず、トラックの周りに群がり、大騒ぎにもなった。


8/27/2019

At about 300m from the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, a Japanese soldier suffered burns and keloids from the heat rays on both lower legs.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。特に、衣服で遮断されずに、直接に両方の下腿の背面が重度の熱傷を被爆した。皮膚の熱傷した後に、ケロイドが形成されて瘢痕が残存した。
 原子爆弾からの強烈な熱線により、重度の熱傷を被爆した。爆心地から約1.2km以内は、全身に熱線をあびた人は、皮膚が火傷で焼きつくされた。内臓などにまで障害を受けると、ほとんどの被爆者は即死あるいは数日以内に死亡した。原子爆弾が爆発してできる火の玉の温度は、中心部で約100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mとなった。非常に強い熱線によって、爆心地の地表の温度が約3,000~4,000℃に達した。 (太陽の表面温度は約5,700℃、鉄がとける温度は約1,500℃であった) 



8/22/2019

France conducted an underwater nuclear test at the French Polynesian Mururoa Atoll in the South Pacific.

フランスが、1995年9月5日から1996年1月27日までに、6回もの太平洋の環礁核実験を再開した。初回の9月5日は、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で核実験を実施した。核実験をした直後に、広大な海面が白濁した。「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の無期限延長が5月11日に締結された。ところが、6月13日には、フランスが核実験を再開することを公表した。
 1963年8月5日に部分的核実験禁止条約(PTBT)で、地下を除く大気圏・宇宙空間・水中の核兵器の核実験を禁止した。すべての核実験を禁止するために、1994年1月からジュネーヴ軍縮会議の核実験禁止特別委員会で協議されていた。1995年5月11日に、核保有国5カ国であるアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国の以外の国家が、核兵器の核実験を禁じた包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期する文書案が提案された。1996年9月10日に、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期を採択して、締結した核保有国はできる限り自制することが圧倒的多数で決まった。しかし、国連の採択において、インド・ブータン・リビア反対して、キューバ・シリア・レバノン・タンザニア・モーリシャスは棄権した。CTBTの発効には、特定の44カ国の全ての批准が必要であるが、未発効のままである。署名済みで未批准は、アメリカ・中国・エジプト・イラン・イスラエル、未署名。未批准は、北朝鮮・インド・パキスタンである。一部の発効要件国の署名と批准がされず、CTBT条約は未発効のままである。
 CTBTの概要は、(1)宇宙空間,大気圏内,水中,地下を含むあらゆる空間における核兵器の実験的爆発及び他の核爆発を禁止する。(2)この条約の趣旨及び目的を達成し,この条約の規定の実施を確保する等のため,包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)を設立する。(3)条約の遵守について検証するために,国際監視制度,現地査察,信頼醸成措置等から成る検証制度を設ける。 


8/18/2019

Severe burns were suffered to his exposed area due to intense heat rays emitted from the explosion of the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。
 原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し、被爆者は甚大な熱傷を被爆した。爆心地から地面に到達した熱は、1平方センチメートルあたり約100カロリーと推定されて、爆心地から1 km以内で露出して、その熱線を直接に被爆した被爆者は、5度以上の熱傷を被爆した。爆心地から3.kmまでは、1度から4度の範囲の熱傷を被爆した。
 原子爆弾が炸裂して放射された直後のすさまじい高熱は、身体の皮膚などに最重度の熱傷を被爆した。爆心地からの距離が近いほど熱傷は重度になった。重度になると皮膚は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下組織や骨までが露出した。約1.2km以内では熱線は致命的な殺傷となった。爆心地付近では、一瞬のうちに身体が炭化して、水分さえ蒸発した。地上を襲った熱線による瞬間的な熱傷が、被爆死亡者の死因の約3割となった。



8/14/2019

Dr. Nagai, most famous Catholic at Nagasaki Hospital preached the justice of atomic radiation caused by the nuclear bombing.

長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士となった永井隆が、1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂により崩壊した長崎市内の爆心地の周辺の荒野を1948年4月に散策していた。その数日後に原爆症で死亡した。
 永井隆は、被爆前の1945年6月に白血病にて余命3年と診断された。長崎原子爆弾の炸裂によって、爆心地から約700mの長崎医大で診療中に被爆した。受傷した直後から、長崎市三山町木場を拠点とした救護班から巡回回診をした。1948年8月に長崎市浦上天主堂の付近に如己堂にて白血病の療養した。1951年5月1日に長崎大学附属病院で病死した。
 永井隆は、長崎原子爆弾の救護活動を『長崎の鐘』を1949年1月に出版して欧米のベストセラーとなり有名人となる。永井隆は、カトリック信者として、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭(ホロコースト)」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと原爆を肯定した。『生命の河―原子病の話(1948年8月)』では、ナチス・ドイツがドイツ民族の血の純潔を保つホロコーストに対して、難民となったユダヤ人の原子力科学により、アメリカで原子爆弾が案外早く出来上り、戦争を引き起こした日本の長崎市民の血が求められたと説教した。宗教思想の有名人になれば、戦争も大量虐殺も原子爆弾も神に感謝すべきであると信者に説教した。