12/26/2020

The Shiroyama National School was destroyed by the Nagasaki atomic bomb, and many people were killed in the bombing, and the skeletons of the bodies of the survivors were scattered in the schoolyard.

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した地点である爆心地に近い城山国民学校が直撃されて崩壊して多数の被爆死した。その校庭には、見分けのつかない被爆者の死体から白骨が散乱した。

 城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地から西方にわずか約500mと最も近い国民学校である。建物および人員の損傷率が極度に達した。校舎は本館と旧館の2棟の鉄筋コンクリート3階建であった。本館は土台から西方に傾斜して、各階とも内部が崩壊した。3階の一部は外壁も破壊した。直後から、火災を引き起こして2と3階は全焼した。1階は全勝は免れた。新旧の2棟を繋ぐ接続棟の1階にあった職員室は、最初に出火した。一切の書類や器具を焼失したが、出火は職員室のみにとどまった。旧館校舎の被害は、1階が内部の破壊と2階の一部と3階がほとんど崩壊したが、そこに火災は起こらなかった。
 長崎原子爆弾が炸裂時に、学校には、本館1階に教職員29人、その子ども1人、庁務員3人、計33人がいた。このうち生存者は、教職員3人と子ども1人のみであった。死亡者は、校長室の4人、職員室1人、宿直室4人、用務員室2人、校庭17人と、その他に出張中の被爆死亡者である庁務員1人の合計計29人が被爆死した。生存者は、校長室1人、医務室2人、階段室1人で、計4人のみであった。校庭で甘藷畑の草取り、掃除などをした17人の中には、被爆で爆死して判別できぬ白骨が残存していた。
 その他に三菱兵器製作所の給与課が疎開し、2と3階を使用していた。出勤者は、長崎経済専門学校、県立長崎高等女学校、市立商業学校、女子商業学校、瓊浦高等女学校の動員学徒44人を含む約120人であった。一部の者は交替で校庭の端にある防空壕の補強作業をしていた。被災の状況は、6教室を使用した3階の66人は全員が被爆死して、5教室を使用した2階の36人のうち31人が被爆死して、5人のみ生存した。防空壕作業中の17人のうち6人が被爆死して、11人が生存ししたが、2名は放射能障害の原爆症を発症した。城山国民学校では総計152人のうち132人が被爆死した。比率でいうと、被爆死による即死が約40%を、後日の被爆死が約60%を占めた。城山国民学校の児童被害は、学籍簿焼失のため在籍総数は推定1,500人で、このうち約1,400人余りが山里国民学校と同じく在宅の家庭で死亡した。(長崎原爆の記録)

  

  

 

12/20/2020

21-year-old man 1.0 to 1.5 km, Hiroshima, in open, chondritis of ear with cauliflower deformity, and some burns of the back were received through clothing with slight epilation at November 28.

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmから1.5kmで被爆した21歳の男性である。 広島市内の戸外で、カーキ色の服装、帽子、靴を履いていた。 カリフラワー状の変形を伴う耳の軟骨炎を伴った。 衣服を通して、背中に火傷を被爆した。わずかな脱毛があった。白血球数は22日目で2,400、92日目で5,400であった。1945年8月6日の被爆から約114日経過した11月28日の病状である。時折に、熱傷と感染が相まって耳の軟骨炎を引き起こした。治癒時に耳介に傷がつき、縮み、歪んだカリフラワーの変形を引き起こした。このような奇形は、約1.5km以内の被爆者によく見られた。 

    爆心地から同じ距離にいた人々の間でさえ、原子爆弾の閃光による熱傷からの即時の症状は被爆者ごとに異なった。 小胞は、約1km以内にいた生存者の方が、遠方にいる生存者よりも頻繁に水疱が現れる傾向があった。この距離にいる1人の被爆者は、水疱がすぐに現れたが、翌日まで痛みはなかった。約1kmから1.5kmの2人の被爆者では、5分以内に痛みと水疱の両方が発生した。約1.5km以上の被爆者は2時間以内に痛みを感じましたが、水疱は翌日まで現れなかった。他の被爆者では、約2.0km以上でも約10分以内に小胞が生じた。 ほとんどの火傷と同様に、痛みは最初の数時間はひどく、その後に治まった。熱傷の症状と経過は、紅斑が通常より早く現れることを除いて、日焼けの症状に似ていた。

 広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱傷による死傷者が大きな問題となった。広島原子爆弾では、熱傷よりも爆風による負傷の方が人数は多かったものの、重傷の原因は熱傷であり、原子爆弾の投下後の死者の半分以上を占めていた。即死の原因として、熱の重大性は推定することしかできない。特に内側の爆心地の地域では、即時死亡の主な原因であった推定される。
 閃光および火炎による熱傷の相対的な発生率は、原子爆弾が炸裂した当日の死亡の原因は、閃光と火炎の両方であったが、不明である。間違いなく、爆風で負傷し、逃げることができなかった被爆者の多くは、火炎によって犠牲となった。閃光と火炎の熱傷が同時に発生するも多くあった。多くの場合、閃光は衣服に火をつけ、深刻な熱傷を引き起こした。しかし、熱傷を負った生存者の大多数は閃光の熱傷を負っていた。熱傷の種類が正確に記録された970例の長崎原子爆弾の症例では、閃光の熱傷は約96%であり、火炎の熱傷はわずか約4%であった。同様に、長崎県大村市の大村海軍病院の被爆者では、熱傷の約97%が閃光が原因であった。火炎による熱傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。原子爆弾の爆発による火炎の熱傷は、通常の火傷と同様であった。 

 

12/06/2020

On the following day after the Nagasaki atomic bomb, five rescue workers carried a dead bodies of the survivors on a stretcher on their shoulders near Uragami Station.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂し、長崎市内は壊滅した。翌日の1945年8月10日午前に、爆心地から南に約1.1kmで重傷の被爆者を運搬した。浦上駅の付近で、5人の救護隊員が被爆者の死体を、担架に乗せて肩にかついで運搬した。道沿いの建物はすべて崩壊して、その前方では、崩壊したビルが残存していた。母親と息子が手荷物を持って避難していた。 

 長崎では1944年9月に戦時防空救護対策本部が設置された。1945年2月に長崎県総動員警備協議会が創設された。救護体制は、長崎市医師会により編成された。救護本部から、新興善、勝山、伊良林、磨屋、稲佐の国民学校など約22カ所の救護所が指定された。長崎医科大学と三菱病院が救護センターを整備した。8月9日の長崎原子爆弾で、想定外の壊滅により、特に爆心地から東南約700mの長崎医科大学と多くの市内の医師会が崩壊した。爆心地から約1.4kmで損傷を受けた浦上第一病院が、残存して9月10日から医療を提供した。9月12日から長崎県警察警備隊と川南工業奉仕隊により、本原救護所が開設された。医療機能が残存した三菱病院本院が救護活動をした。

 救護所に指定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校には直後から被爆者が集散した。爆心地の近隣の城山と山里の国民学校、長崎市立商業学校、道ノ駅付近でも救護活動が開始された。長崎市内からは周辺の大村海軍病院、諫早海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、長崎陸軍病院、さらに福岡、久留米などの陸軍病院が救護活動に参画した。


11/28/2020

Tibetts killed innocent people by atomic bomb, but he has never fought a damn war anywhere in the world where they did not kill innocent people.

1945年8月6日午前8時15分に、ポール・ティベット(Paul Tibbets)は、広島市に原子爆弾を投下して炸裂させて、テニアン島に「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」爆撃機が帰還した。原子爆弾を炸裂させて広島市民を大虐殺したエノラ・ゲイを、多数のアメリカ軍兵士が集合して出迎えて、歓迎して称賛した。

  ティベッツは母親にちなんでB-29爆撃機エノラゲイと名付けた。1945年8月6日、夜に隠れて離陸したのは7機のB-29のうちの1機であった。小グループには、スタンバイ、写真機、科学機器を備えたものが含まれた。早朝の主なターゲットである広島では、雲量は最小限でした。エノラ・ゲイが最初の原子爆弾「リトルボーイ」を午前8時15分に投下した。ティベッツは1966年に空軍から引退し、2007年に92歳で死亡した。

 ティベッツは、民間人の命の喪失に関しては、悔い改めなかった。彼は言った「あなたも、同時に罪のない人々を殺すつもりになるでしょう。しかし、我々は、罪のない人々を殺さなかったひどい戦争を世界のどこでも戦ったことがない。」「もし新聞がただ聖人を切り取ったら: あなたは非常に多くの民間人を殺している。それは民間人がそこにいるのは大変な運命となった。」と語った。私は原子爆弾を投下するように命じなかったが、私には投下する使命があった。

 ティベッツには、原子爆弾の投下は誇りであった。なぜなら、軍人は自分の国に奉仕し、その国の安全性を維持するという考えから軍歴が始まるからです。まさにそれをやった気がした。戦争には道徳性がないので、いわゆる冷酷な側面を見ることができないと言わざるを得ないので、私は道徳的な問題にこだわるつもりはない。事実はそれがすることになった必然を執行した。それは当時の世界に平和をもたらした。(1989年, 74歳)  ティベッツは想像力の範囲による完全な軍縮に同意しません。強い立場を持つと信じている。その立場を支持する意志を持つ。それは流血を引き起こすも、世界が平和な関係を維持するために、原子爆弾の意味を知らなねばならない。 

 リトルボーイのウラン爆弾は約9,480mから落下し、約43秒後に炸裂し、広島市内の空中の約550mで炸裂した。ミリ秒で約20,000トン相当のTNTの爆発力が放出され、摂氏167,000度に相当する熱の火玉が発生した。炸裂して下の地面の温度は摂氏約3,000から4,000度に達し、熱線は最大約4.0km離れた場所で閃光火傷を引き起こしました。ほぼ約80,000人が即死で殺害されて、半径約3.2km内のほぼすべての建物が全滅した。

 

 

11/22/2020

The boy was exposed to the back of his head by the Hiroshima atomic bomb and suffered an atomic bomb burn with a clear boundary between the flash and the non-flash.

広島原子爆弾が炸裂して、少年の後頭部を被爆した。 後頭部が炸裂後の閃光による熱線から熱傷した。原子爆弾熱傷の原爆症を後頭部に受傷した。原子爆弾からの閃光の光が当たった部分と遮蔽していた部分の境界が明瞭であった。



 

11/08/2020

A 23-year-old woman who was bombed by the Nagasaki atomic bomb was injured in the wound of the A-bomb, was admitted to the Omura Naval Hospital on August 9, 1945, and died on September 17.

長崎原子爆弾に被爆した23歳の女性は、後頭部・右肘・左下腿を破片による介達弾創部を受傷した。さらに左上腕に擦過創を合併した。長崎市の近郊の大村海軍病院の三病舎に長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日に収容された。収容されて、9月17日午後4時35分に死亡した。大村海軍病院で被爆者の死体の病理解剖が施行された。その病理解剖の詳細が記載された。

 痩せた女性の死体は、死剛は上肢は軽度で下肢は著しい。死斑は、身体下垂部にあった。瞳孔は中等度に散大し、角膜は軽度に混濁した。頭髪の脱毛が著明であり、左側頭部に手掌大の乾燥した肉芽があった。横隔膜の高さは左が第5肋骨下縁で、右が上縁にあった。胸腹腔を開くと、その内膜は滑沢であった。心臓の内膜も滑沢で、心臓外膜に多数の充血点があった。心嚢内には藁黄色の液が約100ml溜まっていた。肋膜は癒着していない。腹膜は滑沢で、内蔵の位置は正常であった。

 心臓は、死体の手拳よりも大きく、心臓外膜と内膜に多数の鬱血点があった。心臓内には多量の流動血液と少量の凝固血液を容れていた。左心室の筋肉の厚さは、約2.5cm、右室の筋肉の厚さは約2.0cmであった。心臓の肉柱や乳筋の発育は良好で、各弁膜は正常である。

 左右の肺は暗赤紫色で、外表面多数の鬱血点が並び、多数の結節を認めた。肺を切開するに、割面に多数の結節がある。肺は一般含気量に富み、肺の上葉は血流に富んだ。肝臓は褐黄紫色を呈して、表面は滑沢であり、割面は外表面とほんど同色で、肝小葉が著明であった。胆嚢は鶏卵大であって、内部に黄褐の粘膜液を中等度を容れた。腎臓は左腎は約12.7cm、約7.0cm、約3.5cmであった。左右の腎臓はともに赤紫色を呈して、被膜の剥離は容易で、割面において皮質、髄質の境界は不鮮明である。

 腎盂の大きさは正常で、その他も正常である。脾臓の大きさは約9.0cm、約6.0cm、約2.0cmの大きさである。表面は赤紫色を呈して、割面は混濁して、濾胞は不鮮明である。膵臓の大きさは約13.0cm、約3.0cm、約1.5cmである。表面は淡紅灰城色を呈した。割面には、小葉が著明であった。胃の粘膜は皺壁が著明で、軽度の鬱血がある。胃の内部には黄褐色の粘膜液と回虫一条を容れた。腸粘膜は一般に充血し、所々に多数の鬱血があり、小腸の一部は厚き苔状物に被われ、回虫二条を容れた。

 


11/01/2020

A Japanese soldier died about three weeks after the appearance of acute damage such as hair loss and pulpitis caused by the radioactivity of the Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、爆心地から約1kmの戸外で被爆した。顔面に軽度の射熱傷がある。日本軍兵士は被爆後に原子爆弾からの放射能による急性障害による原爆症を発症した。原子爆弾放射能症である脱毛、歯髄炎などを呈した。被爆後に約3週間経過した8月末頃に死亡した。軍人は陸軍関係の救護機関に収容された。都筑正男『医学の立場から見た原子爆弾の災害』(1954年、医学書院)に掲載された。写真は尾糠政美が撮影したと想定された。

 放射線被爆による主要な急性障害は、脱毛、出血、口腔咽頭部病変及び白血球減少である。これらの発症率は、放射能の被爆線量の増大とともに顕著となり、約50rad(0.5Gy)で5〜10%から、約300rad(3Gy)で約50〜80%まで直線的に増加した。脱毛は被爆後の約8〜10週に起こった。
 急性障害とは1945年12月末までの症状である。急性障害の経過は、1から3期に分ける。第1期は被爆直後から第2週間までで、急性症状が出現した。第2期は被爆して第3週から第8週まで急性障害である。第2期前半の第3週から第5週間までに、亜急性症状が出現した。第2期後半の第6週から第8週で合併症が出現した。第3期は被爆後の第3月間から第4月間までに、回復症状が出現した。
 第1期の急性症状では、即死者は崩壊建物下での圧死や、焼死及び全身熱傷による。大量の放射線を被爆した者は、最初に全身の脱力感、吐き気、嘔吐等の症状が現れる。数日の間に発熱、下痢、吐血等による全身衰弱を伴う。大量放射線の被爆者は約10日前後までに死亡した。病理学的には造血組織や腸の上皮細胞の障害が認められた。第2期前半の亜急性症状は、吐き気、嘔吐、下痢、脱力感、各種出血、白血球減少、赤血球減少等であった。特に骨髄、リンパ節、脾臓などの組織が破壊された。第2期後半の合併症状は、顆粒球や血小板が減少して、感染に対する免疫力の低下および出血症状が現れた。この時期の死因の多くは敗血症であった。第3期の回復症状では、放射線障害からの回復は、被爆の約3〜4か月後から始まり、内臓諸器官の機能回復、脱毛からの発毛、各種血球の増殖、正常化が起こり始めた。

 

10/25/2020

A young man was exposed to the Hiroshima atomic bomb, and his face, upper arms, back, thighs and lower legs were exposed to atomic bomb burns, and keloids swelled.

 広島原子爆弾に青年が被爆して、顔面と上腕、背中、大腿から下腿まで原子爆弾熱傷症を被爆した。青年被爆者の火傷部位からケロイドが異常に膨隆した。京都帝国大学の研究班は、原爆被爆者の調査研究に大野陸軍病院や大野国民学校で診療・研究をした。その研究班の一員で血液学を専門とする菊田武彦が、その所見と写真撮影の記録を残した。菊池健彦は、京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月28日に広島市内の被爆調査をした。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津浪による遭難の状況(菊池武彦日記)』、被爆直後の写真などを提示した。京都大学は、1949年4月までに、広島市に4回、長崎市に2回調査団を派遣して、診療調査に従事した。
 1945年8月6日に、広島市内に原子爆弾が投下され、多くの市民が被爆した。廿日市大野村では、この地に隣接して約800人を収容する大野陸軍病院があった。中央の病棟に約100人、大野国民学校(現大野西小学校)に約1,500人の被爆者が収容された。京都大学は、8月27日に中国軍管区司令軍医部から再度に、原爆被爆者の被災調査と早急なる救済のために研究員派遣の要請を受けた。京都帝国大学は、直ちに医学部の杉山繁輝、菊池武彦(血液学)、船岡省吾(解剖学)などの教授陣と理学部物理学者を加えた研究班を組織して、広島市内に派遣した。郊外の廿日市に9月3日から大野陸軍病院に本拠を置いて、研究と診療を開始した。9月9日に、アメリカ原子爆弾災害調査団が広島入した。広島県は9月15日に、8月25日時点の人的被害を報告した。死者は約46,185人、行方不明は約1,7429人、重傷者は約19,691人、軽傷者は約44,979人、罹災者は約235,656人と推定した。
 大野陸軍病院は9月17日に枕崎台風に襲われて、20時30分頃に山津浪が起こり、一瞬にして山崩れして大野陸軍病院の中央部が壊滅して山陽本線を越えて海中に押し流された。同病院に入院中の被爆者の殆んど全員と職員合計約150人の尊い生命が奪われた。広島原爆への対策、調査、研究に献身した京大真下俊一教授(内科学)と杉山繁輝教授(病理学)以下研究班員約11人も含まれた。調査団員から山津波の犠牲者が出たために、活動が中止となった。


 

10/24/2020

On October 24, 2020, the UN Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (TPNW) reached the required 50 states parties for its entry into force January, 22, 2021.

 国連は、2020年10月24日に史上初めて50カ国が核兵器を禁止する核兵器禁止条約(TPNW: Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)を批准し、90日後の2021年1月22日に発効することを公表した。国連は10月24日土曜日に、50カ国が核兵器を禁止する国連条約を90日後に発行する国連条約が批准されたと発表した。反核活動家には歓迎されたが、アメリカや他の主要な核保有国は強く反対した。

 このTPNWは、2017年7月7日に193名の国連総会で賛成122票、オランダ反対票、シンガポール棄権票で承認された。賛成票を投じた国の中にはイランがあった。インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの5つの核保有国と、核兵器を保有している他の4か国は、多くの同盟国とともに、交渉と条約への投票をボイコットした。

 50回目の批准日は、国連を公式に設立して国連の日として祝われる国連憲章の批准75周年にあたる。国連は核兵器廃絶を目標に平和を推進するために設立された。TPNWは国連で最高の条約である。市民社会と緊密に協力して民主主義から軍縮させる。条約は、すべての批准国が、いかなる状況においても、核兵器またはその他の核爆発装置を開発、試験、生産、製造、その他の方法で取得、所有、または備蓄してはならないことを要求している。また、核兵器または核爆発装置の譲渡または使用、およびそのような兵器を使用する脅威を禁止し、締約国に条約を他の国に宣伝することを義務付けている。批准したすべての国で発効すると、これらの要件に拘束される。
  国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、50の国を称賛し、交渉を促進し、批准を推進する市民社会の「道徳的活動」に敬意を表した。国連は、1月22日に発効した条約は、「核兵器の使用による人道上の壊滅的な結果に注意を引くという世界的な運動の頂点に達して、核爆発と核実験の生存者への賛辞であり、その多くの国はこの条約を提唱したと述べた。この条約は国連の軍縮の最優先事項であり続ける核兵器の完全廃絶に向けた有意義な提言を公表している。核兵器がもはや存在しない日だけ、核兵器が完全に安全になることは明らかである。それは簡単ではなく、多くの障害がある。配備された核弾頭、ミサイル、爆撃機を制限する新戦略兵器の削減条約の更新に関するアメリカとソ連の協議や来年のTPNWの再検討会議など、すべて同じ方向に収束し、最終的な目的は、核兵器のない世界を持つことでなければなりません。
 2017年のノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: ICAN)の事務局長であったベアトリス・フィンは、この瞬間は、広島と長崎への恐ろしい攻撃から75年が経ち、核軍縮を基礎とした国連条約の創設である。TPNW を批准した50か国は、核兵器は不道徳であり、違法であるという新しい国際条約を設定する真のリーダーシップを示した。1945年の広島原爆投下の生存者であり、この条約の熱心な運動家であるサーロー節子は、私たちが50回目の批准に達したことを知ったとき、私は我慢できない喜びがあった。

  1970年に発効した核不拡散条約(NPT: Traety on the Non-Proliferation of Nuclear Weaptons)は、5つの核保有国を含めて、核兵器の拡散を防止し、核兵器を廃絶することを目的として、核兵器を禁止することによって、核不拡散条約を弱体化させる条約ではない。核廃絶が核不拡散条約の最終目標である核不拡散条約は、核兵器が5つの元の兵器力を超えて拡散するのを防ぐことを目指した。非核署名国は、核軍縮に向けて動くという5大国のコミットメントと引き換えに核兵器を追求しないこと、非核国がエネルギーを生産するための平和的な核技術を保証することを要求した。 
 アメリカからのTPNWに対する書簡では、5つの元々の核保有国(米国、ロシア、中国、英国、フランス)とアメリカのNATO同盟国は、統一して条約の潜在的な影響に反対している。TPNWの核兵器禁止条約は、世界的な核不拡散努力の要と考えらた半世紀前の核不拡散条約に、検証と軍縮の時間を遅らせる危険性がある。TPNWは、国際社会では分裂しており、今後も分裂し続け、コンセンサスに基づく進展の唯一の現実的な見通しを提供する既存の不拡散と軍縮のフォーラムの分裂をさらに定着させる危険がある。TPNWが、差し迫った拡散に対処するために協力する核保有国の能力を狂わせることが許されたら、それは残念なことであると批判した。

 


10/17/2020

A twenty-seven-year-old woman (Center), microcephaly Victim, during simple manual work at a home for the mentally disturbed near Hiroshima.

 1950年代に原爆傷害調査委員会(ANCC)の研究が、原爆からの放射線に被曝した母親の妊娠と子供に与える影響を公表した。知的障害を伴う伴う異常に小さな頭である原爆小頭症(A-bomb Microcephaly)を出産した。子宮内の放射能の暴露により、推定約7週間の妊娠時点で小頭症が胎児に発症した。特に、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2km以内の距離で露出して被爆した。子供は全身の成長の遅れと小頭症を模となった。広島と長崎の妊娠の調査は1948年に始まり、6年間続けられた。期間中に、約76,626人の新生児がABCCによって検査された。

 原子爆弾の爆心地から約2,000メートル以内にいた母親の妊娠の結果は、アメリカGHQが本国に戻る直前にようやく調査が開始された。放射線障害の兆候を示した母親では、所見を示さない母親と比較して、周産期に有意な頻度の増加が見られた。子供たちの、知的障害を伴う異常に形の小さな頭である小頭症を伴った。乳児期の流産、死産、死亡の発生率は約43%で、放射線を受けていない胎児の対照群の発生率の約7倍であった。放射線の影響だけで、発達中の脳の著しい脆弱性が明らかになった。ニューロンの生成が増加し、未成熟なニューロンの皮質機能部位への移動が発生する発達の時間に対応した。出生時に最も一般的な欠陥は、無脳症、口唇裂、内反足、多指症および合指症であった。異常は、594人の奇形乳児のうち445人(75%)を占めた。

 妊娠初期に妊婦が高線量の放射線に被曝すると、赤子の頭のサイズが異常に小さくなり、精神的および身体的障害を引き起した。原子爆弾による小頭症を伴う。日本の厚生労働省は、1967年に小頭症の約22人の患者に公式に近距離早期胎内被爆症候群と認証された。偏見に直面する恐れを感じ、社会との境界に引きこもった。社会では「原爆はうつる」と陰口をたたく人もいた。きのこ会は1965年に結成されて、小頭症の被爆者は約15人である。原爆小頭症の母親は高齢となり全て死亡した。 

10/04/2020

At the ceremony to hand over the ashes at the Hiroshima Atomic Bomb Memorial Tower, relatives held the bone box on their knees and held a memorial service.

広島原子爆弾が1945年8月6日に落下して炸裂した直後には、被爆者の死体はように物体のように取り扱われて処理された。錯乱した被爆地の中で、死後処置しなければならない死体も数万人にも達した。軍隊や民間市民が、死体を焼跡や川辺から広場や路地に運んでは、丸太のように積み重ねて焼却した。その時に、その一部に警察が付き添って検死調書を作成した。性別や年齢などを推定できるだけであった。わずかな氏名が判明しても、瓦や髪の破片に記載して、死体の付近に置くだけであった。その後には焼却して処理された。供養塔に集積された遺骨も大部分は、氏名が不詳の無縁仏になった。そのほかに約2,000体もの氏名がわかった遺骨も残存していた。原爆供養塔のコンクリートの地下室に、骨壷が入った骨壷に積み重なった。1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めた。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、約824柱の遺骨は引き取り手がなく、原爆供養塔に潜在している。

 1955年に、広島市は氏名の判定している遺骨の名簿を、新聞紙上に公表した。約70人の引き取り手が出現した。1968年には、広島東警察署で残存していた検死調書から、原爆供養塔内の納骨名簿、広島第1・2陸軍病院の被爆死者の名簿、戦災収容者名簿を、広島平和記念館で公開して、縁故者を求めた。1968年の遺骨氏名の公表で、広島原子爆弾が炸裂して23年間が行方不明の中学生であった息子の名前を発見して、母親は悲鳴を上げて慟哭した。引き渡された骨壷の遺骨は小さくわずかであった。担当の係官に、詰め寄り確認した遺骨の経緯を問い合わせた。1968年8月1日に、広島原爆供養塔の前で、縁故者に遺骨の引き渡し式典が挙行された。骨箱をひざの上にしっかり抱え込んで供養式をした。遺骨を拝受した縁故者は、多くの縁故者が目頭を抑えながら、慟哭した。 

 


 

9/26/2020

A-bomb survivors of the Hiroshima atomic bomb were receiving outpatient treatment on October 6, 1945, at a rescue camp in the Fukurocho National School, where the hypocenter remained about 460 meters southeast.

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で外来治療を受けていた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡して、生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。

 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。

 家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。






 

9/19/2020

Victims of the atomic bomb attack of 6th August sit in a makeshift hospital in a damaged bank building in the centre of Hiroshima.

広島原子爆弾で自宅を焼失して被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。つくろいものをする主婦と力を失ったように腰をおろす主人。婦人は熱線をあびて顔面を痛々しい火傷をした。レンズに向けた悲しげなまなざし。松葉杖が痛ましい。夫婦のシャツの上には多数のハエが集る。爆心地付近の鉄筋の建物は少なく、焼け残ったのは紙屋町の広島銀行、三菱商事、野村商亊のビルのひと棟が残っていた。1945年9月中旬にライフ誌のアメリカ軍従軍カメラマンのアイヤ・マン(Jay Eyemann)が撮影した。

 広島原子爆弾が炸裂した8月6日直後には、緊急的に約11ケ所以上の救護所が開設された。その後1週間以内に広島市内では約53ケ所以上に達した。被爆者の集結場を救護所に指定した。被爆当初に、具体的な救護所や救護活動の詳細な記録は見当たらない。大病院からテント救護所や地下室救護所など格差が様々であった。『戦災誌』では被爆後1週間以内に日本銀行広島支店と1週間以後に勧業銀行跡が、残存した建造物内の救護所と記載されている。広島市内と市外で、約249ケ所の救護所が開設された。市内の救護所は次第に機能の限界を越えて、被爆者は市外へと避難した。

 原子爆弾から生き延びた被爆者は癌ややその他の病気で苦しんだ。アメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾により、被爆者は危険な量の放射線に被爆した。被爆した犠牲者の骨を調査すると、9.46グレイ(Gy)ものの放射線を吸収していた。癌に対する放射線治療では、腫瘍の局所領域に2〜3Gyを照射している。放射能の曝露のために、広島と長崎の多くの生存者が癌に苦しんだ。アメリカ軍が投下した原子爆弾から約2年後に、白血病の割合は子供たちの間で急上昇した。その約10年後には、癌の発生率は中壮年者の間で急上昇した。広島と長崎の癌患者の約10%は、高濃度の放射能の被爆から原爆症を発症した。 

 

9/12/2020

The closer to the hypocenter of the atomic bomb, the higher the mortality rate and the incidence of intellectual disability in the fetus exposed to the atomic bomb radiation in the mother's body from fetal to infancy.

原子爆弾が炸裂時に、母体内にいた胎児も被爆して、様々な影響を受けた。その中で被爆によって、多くの妊婦が死亡して、胎児の死亡、胎児の流産も認められた。妊娠中に被爆して出産した子供は、体内被曝児と呼称された。母体内で被爆した子供の人数は不詳である。1960年にABCC(原爆傷害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)は、体内被曝時の人数は、広島で2,310人、長崎で1,462人で、合計3,872人と報告した。

 長崎市内の爆心地から0〜2km以内の妊婦96人と4〜5kmで被爆した妊婦の113人とを比較して経過観察した。 0〜2kmで被爆して放射能症が発症して妊婦は、胎児死亡率は約23.3%、新生児の死亡率は約26.1%、知的障害の発現率は25%であった。4〜5kmでは胎児死亡率は2.7%、新生児の死亡率は3.6%、知的傷害の発現率は0%であった。爆心地の近いほど死亡率と発現率が急上昇した。

 長崎原子爆弾の爆心地から0〜2km以内で被爆して急性放射能傷害があった妊婦のうちで、7人が胎児の死亡、6人は新生時以降に死亡、残る16人の内でのうち4人に知的障害を伴った。知的障害は特に小頭症を合併した。頭囲が平均値に比較して、2標準偏差以上に 狭小であった。3標準偏差以上に狭小であるほど、知的障害が重度で、社会生活機能が低下した。

 広島原子爆弾の胎児被爆児では小頭症が48例と長崎原子爆弾で約15例を認定された。知的障害を伴う重度の小頭症は、約3〜15週間に被爆した胎内被爆時に多く発現した。被曝線量の増加に、発現率が相関した。特に広島原子爆弾では、小頭症児の母親が比較的に低線量閾値でも発現した。広島原子爆弾による被爆した初期の放射線量に中性子線が多いことが想定された。



9/06/2020

August 12. An emergency relief station set up at the Fukoku Seimei building transfer truck.

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。

 


8/29/2020

These stone steps were at the entrance to the Hiroshima Branch of the Sumitomo Bank. Exposed to the atomic explosion at close range

人影の石 (Human Shadow Etched in stone)

住友銀行広島支店の入口階段を切り出して、1971年に広島平和記念資料館に移設した。銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、逃げることもできないまま、その場で死亡したと推定された。広島平和記念資料館に移設されるまでに1959年に柵を設け、1967年に強化ガラスで薄くなる影を覆っていた。風化等で人影の石は薄くなっている。原子爆弾の記憶が風化して薄れないように、人影の石の保持を継続している。

 原子爆弾の強烈な熱線により階段は白っぽく変色し、腰掛けていた部分が影のように黒くなって残存した。この人影が自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられている。 石段の人影だけでなく、壁、路面に焼き付く欄干の影、ガスタンクに残るハンドルの影などにも現れた。1人の婦人が銀行の開店を待って、右下肢を伸ばして、左下肢は立膝をして、石段にうずくまって腰掛けていたと推定される。たとえ炸裂直後に約4,000度に達しても、人体は気化することなく、骨と炭化した器官は残る。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した爆心地から約260mに階段は存在していた。原子爆弾の約4000度もの熱線が、その周りの花崗岩の石段の表面を白く焼いて人の影の部分が残った。「死の人影」とも呼称された。石段に座った被爆者は、その場で即死した。 住友銀行は、ビルの外観だけを残して内部は崩壊した。8月6日には従業員は約29人が被爆死して、負傷者は約40人であった。

   These stone steps were at the entrance to the Hiroshima Branch of the Sumitomo Bank. Exposed to the atomic explosion at close range , the person sitting on the steps waiting for the bank tp open is thought to have died on the spot with no possibility of escape. The intense heat of the A-Bomb turned the steps whitish; the stone under the sitting person remained dark, like a shadow. Several families have suggested that the person killed on the steps may have been one of their own.


広島平和記念資料館で強化ガラスで覆われた人影の石

 

アメリカ戦略爆撃調査(USSBS)が1945年11月20日に撮影した。

 

8/22/2020

Shiroyama-machi, late August, after Nagasaki Atomic Bomb. A small memorial name plate boldly reads: "KURAHASHI Masuko's last resting place."

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市に投下されて炸裂した。爆心地からわずか約500mの城山町は、全域が壊滅して原爆死した。8月下旬頃に、城山町の荒野に「倉橋満嘉子の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。おそらく原爆死を免れたと思われる夫か父親のどちらかの身内が、妻や娘の遺体を火葬した後に、そこに目印として置いていた。その銘板の地下には、火葬した遺骨の一部は埋葬されたと思われる。その他の不詳不明の多数の多量の遺骨は、そのままに城山町の荒野にそのまま放置された。

 長崎市城山町は爆心地からわずか500mの近距離で甚大な被害を受けた。秒速約250m以上もの猛烈な爆風と熱線を受けて、一体は崩壊して炎上した。城山小学校の近くの住宅は全滅で道路だけが残存した。まっ黒に焼かれた死体が散乱した。付近の浦上川は、長崎原爆の被爆者が水を求めて集まり、折り重なり死体で一杯であった。骨だけの上に皮膚がぶら下がった死体、真っ黒い顔の死体、一面焼け野原の中に無数の真っ黒な死体が転がり、異臭が漂っていた。城山町は全焼して、生存者でも生きながらに炎に包まれ焼け死んだ。泥水に水を求めて、無数の死体で埋まった。つかむように手を上げて、目をむき出して、すごい形相していた。被爆者は家族との再会を願いあちこち探しまわった。 

 城山町の周辺では、家屋や工場が一瞬にして破壊され、人間や動物が殺害された後に、数え切れないほどの火災が発生し、翌日8月10日の午前1時まで燃え続けた。空襲警報の解除後に原子爆弾が炸裂したため、避難所に避難したのはごく少数であり、結果として比較的大きな被害が出た。夏季であり、灼熱のためにうじ虫とひどい死臭のために、死体はすぐに火葬する必要があった。1945年9月中旬に長崎市を訪れたアメリカ海軍将校は、原子爆弾の炸裂から約1か月以上経過した後も、「死と腐敗の匂いが地域に広がっていた」と報告した。 

 

 

8/16/2020

The Hiroshima atomic bomb caused a woman to suffer a burn from her face to the neck and chest, causing the keloid to pull her skin.

広島原子爆弾の炸裂によって、広島市民の女性が顔面から頸、胸部にかけて熱傷を被爆した。熱傷部位から発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。 女性ホルモンであるエストロゲンは瘢痕化を促進すると推定された。結果として、閉経前の女性は、閉経後の女性と男性の両方よりも瘢痕が悪化することがよくある。特に、顔面など真皮が厚い皮膚部位は、真皮が薄い部位に比べて、瘢痕が大きくなる傾向があった。

  被爆者の火傷や傷が治癒したように見えた後に、傷跡は厚くなり、ケロイドとして知られる瘢痕をもたらした。ケロイドは、爆心地から約2km(約1マイル)以内で熱線に曝された生存した被爆者の約50〜60%に発生した。ケロイドは、損傷後に形成される瘢痕組織の線維性過成長である。ケロイドの語は、鳥の鉤爪を示唆するギリシア語に由来した。深刻な程度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕形成の比較的高い発生率は、被爆者が2度または3度の重症度である閃光火傷の治癒後に発生した。ケロイドは放射線の被爆で悪化して、しばしば触覚に非常に敏感で、痛み、灼熱感、かゆみを引き起した。

 ケロイドに関連する放射線は、爆弾から1分以内に原子爆弾によって放出された初期放射線と、初期放射線の後に放出された残留放射線の2種類に影響を受けた。身体の未熱傷部分から採取された皮膚移植しても、ケロイドを発達させた。ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に、顔にケロイドを持っている被爆者は、避難所を退所しても、家を離れることを拒否することが多く、背中や肩にケロイドを持っている被爆者は、肌を見えることをためらっていた。広島の多くの被爆者は、原爆攻撃後の夏期でも長袖のシャツを着ていた。他の日本人は「原爆病」を恐れて、その傷跡のために明らかである被爆者の障害者を軽蔑した。 被爆から年月が経つにつれ、精神的および肉体的な深刻な傷跡と逆境に悩まされたる女性と子どもは、一般の健常な市民の軽率な視線に直面して苦悩したいた。

 

 

8/09/2020

Nagasaki Peace Declaration: Nagasaki Atomic Bomb August 9, 2020 past 75 years

Nagasaki Peace Declaration

Exactly 75 years have passed since the day our city was assaulted by a nuclear bomb. Despite the passing of three quarters of a century, we are still living in world where nuclear weapons exist.Just why is it that we humans are still unable to rid ourselves of nuclear weapons? Are we truly unable to abandon these dreadful weapons that so cruelly take lives without even allowing for dignified deaths and force people to suffer for entire lifetimes as the result of radiation?

 Songwriter KINO Fumio lost his wife and children to the atomic bomb on that August ninth 75 years ago and went on to express his sadness and feelings about peace through music. In his memoirs he wrote the following:The tragedy that unfolded beneath the reddish-black mushroom cloud that spread out on that day is deeply embedded in my heart. The awful sight of hideously burned people covered inflames; innumerable corpses scorched until they were almost carbonized and spread around the debris like logs; women wandering about with leaden eyes; phantasmagoric visions such as this vividly revisit my mind as the day of August ninth comes around each year.In order to see that no one else ever goes through such a hellish experience, the hibakusha, or atomic bombing survivors, have fervently striven to inform us about what went on underneath

that mushroom cloud. However, the true horror of nuclear weapons has not yet been adequately conveyed to the world at large. If, as with the novel coronavirus which we did not fear it until it began spread among our immediate roundings, humanity does not become aware of the threat of nuclear weapons until they are used again, we will find ourselves in an irrevocable predicament.

  This year marks the 50th year since the Nuclear Nonproliferation Treaty, or NPT, entered into force. This treaty, which promised that there would be no increase in nuclear-weapon states and that nuclear disarmament negotiations would be pursued in good faith, is extremely an important agreement for humankind. However, in the past few years motions by the nuclearweapon states to go back on the promise of nuclear disarmament have been increasing, as evidenced by nitiatives such as the scrapping of the Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty, or INF Treaty. In addition to that, the development and deployment of newer, more sophisticated nuclear weapons and smaller, easier-to-use nuclear weapons, is proceeding. As a result, the threat of nuclear weapons being used is increasingly becoming real.

 “Only 100 seconds remain.” In order to symbolize this state of crisis, the “Doomsday Clock”,an indicator of the time left until the earth’s extinction, was set at its shortest time ever this year.Three years ago, the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons was adopted by the United Nations. This treaty clearly states that nuclear weapons should be eliminated in accordance with the wishes of humanity. Among the nuclear-weapon states and countries under the nuclear umbrella there have been voices stating that it is too early for such a treaty. That is not so. Rather, nuclear arms reductions are far too late in coming. It is now 75 years since the atomic bombings and the founding of the United Nations. Having reached this milestone, we should now be remembering that humanity itself promised to eliminate nuclear weapons in Resolution 1 of the United Nations General Assembly.

  When the Pope visited Nagasaki last year, he said two things that may be keys. The first was that “To make this ideal (of a world of peace, free from nuclear weapons) a reality calls for involvement on the part of all.” The second was that “There is a need to break down the (growing) climate of distrust.” I hereby appeal to everyone around the world.There are innumerable ways that we can become involved in working for peace.This year, many people have been applauding the continued efforts by those in the medical profession to battle the novel coronavirus. In the same way, let us now applaud with heartfelt respect and gratitude the hibakusha who, while enduring physical and mental pain, have spoken

out about their painful experiences for the 75 years since the time of atomic bombing until todayin order to provide a warning to people around the world.

   With this applause, an act of only 10 seconds or so, we are able to spread the circle of peace.The message of high school students which hangs in this tent today is also an expression of the desire for peace. Small acts such as the folding of paper cranes can convey feelings about peace as well. Let us proceed unceasingly and with conviction to lay down the roots for a culture of peace in civil society.

  Young people of the world; the novel coronavirus disease, global warming and the problem of nuclear weapons share one thing in common, and that is that they affect all of us who live on this earth. Are nuclear weapons necessary for the world of the future that you will live in? Let us clear a path to a world free of nuclear weapons and walk down it together.I appeal to the leaders of countries around the world.Please aim to break down the growing climate of distrust and instead build trust through dialogue. At this very time, please choose solidarity over division. At the NPT Review Conference which is scheduled for next year, I ask that you show a workable way towards nuclear disarmament which includes reductions in such weapons by the nuclear superpowers of Russia and the U.S.A. I now appeal to the Government of Japan and members of the Diet.

  As a country that has experienced the horrors of nuclear weapons, please sign the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons and see to its ratification at the earliest possible date. In addition, please examine the plan to establish a nuclear-weapon-free zone in Northeast Asia.And please adhere for eternity to the peaceful principles of the Japanese constitution, which includes the determination not to wage war. Furthermore, in addition to providing increased support for hibakusha who are suffering from atomic bombing aftereffects, I ask that relief measures be extended to those who experienced the atomic bombings but have yet to be officially recognized as bombing survivors.

  Nine years have now passed since the Great East Japan Earthquake and Tsunami. As a city that has experienced the threat of radiation, Nagasaki stands in support of the people of Fukushima as they strive towards recovery.Along with everyone who reluctantly could not attend today’s ceremony because of the novel coronavirus, we offer our heartfelt prayers for those who lost their lives to the atomic bomb and hereby declare that Nagasaki will continue to work tirelessly with Hiroshima, Okinawa, and all the people in places where great losses of life were experienced due to war and where peace is longed for, in order to bring about eternal peace and the elimination of nuclear weapons.

August 9, 2020   TAUE Tomihisa   Mayor of Nagasaki


26-year-old woman , 0.74 mile, Nagasaki, inside wooden house. Burns received through khaki trousers at October 11.

長崎原子爆弾が、1945年8月9日の午前11時2分に投下して炸裂した。26歳の女性は、爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆した。新興善国民学校の救護所にて救護された。薄下着を着付けて、靴と靴下は脱いで、茶色かかた黄色のもんぺを通じて、両方の下肢が火傷した。女性は、中等度の第2度の火傷を顔面から首に被爆した。下腿と足に重度の第2度の火傷を被爆した。ガラスの破片によって、多数の小さな裂傷を被爆した。女性は、中等度の原爆放射能も被爆をして、頭皮とまゆげが脱毛した。さらに被爆した皮膚に紫斑とケロイドの瘢痕を左膝と足背に被爆した。被爆写真は、長崎原子爆弾が炸裂してから約1ケ月目の1945年10月11日に撮影された。

 


原子爆弾の火傷は身体の片側が特に火傷した。被爆者が火傷しない側で休んでいる状態で治療を可能にする。火傷の部位は、生存者の3591人の火傷症例では、頭や手足が98%に、手足に火傷が87%、わずか9%で顔と首に火傷が約9%に限定された。閃光熱傷からの直接の症状は、爆心地から同じ距離でも、被爆者によって異なった。小胞は、0.6マイル以内にいた生存者の方が、遠方よりも頻繁に出現する傾向があった。この距離の被爆者は、水疱がすぐに出現したが、翌日まで痛みはなかった。0.6マイルと0.9マイルの間の2人の患者では、痛みと水疱の両方が5分以内に発生した。0.9マイルの被爆者は2時間以内に痛みがあったが、水疱は翌日まで現れなかった。他の患者では、1.2マイルであっても、10分以内に小水疱がみられた。ほとんどの火傷と同様に、最初の数時間は痛みが激しく、その後は治まった。第1度のやけどを負った患者の症状と経過は、通常は紅斑がより早く現れたことを除いて、日焼けの症状と似ていた。

  皮膚が露出した屋外の被爆者に、炭化と壊死を伴う重度の第3度のやけどが発生した。この火傷は0.6マイル以内でよく見られた。 一方、軽い衣服でもかなり保護して、重い衣服はさらにより多くの保護を果たした。火傷の程度と関連する身体領域の両方が減少した。この被爆者は、露出部分に第3度のやけど、衣類の下に第2度または第1度のやけどを負う可能性があった。 第3度の火傷は、火傷の組み合わせがあった部位でも発生した。感染、栄養失調、または放射線障害による全身への影響によって遅延した場合を除き、治癒は通常の経過をたどった。生存者の大部分の火傷は第1度または第2度であったため、治癒は通常迅速でした。しかし、重度の2度以下の火傷のほぼすべてが感染し、真皮のより深い部分が破壊され、特に放射線障害のある患者では治癒が遅れました。傷のいくつかは、原子爆弾の4か月後には治癒できず、この時までに患者は白血球減少症から長い間かけて回復した


8/08/2020

Hiroshima Peace Declaration : Hiroshima Atomic Bomb August 6th, 2020

On August 6, 1945, a single atomic bomb destroyed our city. Rumor at the time had it that “nothing will grow here for 75 years.” And yet, Hiroshima recovered, becoming a symbol of peace visited by millions from around the world.Humanity struggles now against a new threat: the novel coronavirus. However, with what we have learned from the tragedies of the past, we should be able to overcome this threat.

  When the 1918 flu pandemic attacked a century ago, it took tens of millions of lives and terrorized the world because nations fighting World War I were unable to meet the threat together. A subsequent upsurge in nationalism led to World War II and the atomic bombings.

  We must never allow this painful past to repeat itself. Civil society must reject self-centered nationalism and unite against all threats.The day after the atomic bombing, a young boy of 13 saw, “… victims lying in rows on the bridge. Many were injured. Many had breathed their last. Most were burned, their skin hanging off. Many were begging, ‘Water! Give me water!’” Long after that horrifying experience, the man asserts, “Fighting happens when people think only of themselves or their own countries.”Last November, when Pope Francis visited our city, he left us with a powerful message: “To remember, to journey together, to protect. These are three moral imperatives.” Ogata Sadako, as UN High Commissioner for Refugees, worked passionately to assist those in need. She spoke from experience when she said, “The important thing is to save the lives of those who are suffering. No country can live in peace alone. The world is connected.”

These messages urge us to unite against threats to humanity and avoid repeating our tragic past.

  Hiroshima is what it is today because our predecessors cared about each other; they stood together through their ordeal. Visitors from other countries leave the Peace Memorial Museum with comments like, “Now we see this tragedy as our own,” and “This is a lesson for the future of humanity.” Hiroshima considers it our duty to build in civil society a consensus that the people of the world must unite to achieve nuclear weapons abolition and lasting world peace.

  Turning to the United Nations, the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), which went into effect 50 years ago, and the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (TPNW) adopted three years ago are both critical to eliminating nuclear weapons. They comprise a framework that we must pass on to future generations, yet their future is opaque. Now more than ever, world leaders must strengthen their determination to make this framework function effectively.That is precisely why I urge them to visit Hiroshima and deepen their understanding of the atomic bombing. I further urge them to invest fully in the NPT Review Conference. They must negotiate in good faith toward nuclear disarmament, as stipulated by the NPT, and continue constructive dialogue toward a security system free from reliance on nuclear weapons.

  To enhance its role as mediator between the nuclear-weapon and non-nuclear-weapon states, I ask the Japanese government to heed the appeal of the hibakusha that it sign and ratify, and become a party to the TPNW. As the only nation to suffer a nuclear attack, Japan must persuade the global public to unite with the spirit of Hiroshima. I further demand more generous assistance for the hibakusha, whose average age exceeds 83, and the many others whose daily lives are still plagued by suffering due to the harmful effects of radiation on their minds and bodies. And once more, I demand the political decision to expand the “black rain areas.”

  At this Peace Memorial Ceremony marking 75 years since the bombing, we offer heartfelt prayers for the peaceful repose of the souls of the atomic bomb victims. Together with Nagasaki and likeminded people around the world, we pledge to do everything in our power to abolish nuclear weapons and open a path to genuine and lasting world peace.

August 6, 2020

MATSUI Kazumi Mayor The City of Hiroshima

8/01/2020

The story of Yukiko Fujii. She miraculously survived the blast though just 1.2km from the blast center, but died later from cancer at the age of 42.

広島原子爆弾は、1945年8月6日午前15分に投下されて広島市内の中心部で炸裂した。広島原子爆弾による爆風により飛び散ったガラスなどで、少女(10歳、女性、藤井幸子)は左顔面を怪我して、熱線により右前腕と手指は熱傷を受けた。原子爆弾が投下された直後から、陸軍の検閲と関門で広島市内には入れなかった。3日後の8月9日に、広島市中区流川通りの救護所の付近で、少女は写真を撮影された(毎日新聞社、国平由紀夫)。記者がおにぎりを少女にあげると笑顔を見せた。爆心地からわずか約1.2kmは全ての建物が破壊されて、市民の約4割が即死していた地位であった。少女の写真は、2019年4月25日に約5年をかけてリニューアルされた広島市の広島平和記念資料館の本館入り口に「焼け跡に立つ少女」として掲げられ、年間150万人以上の来館者が最初に見る壁面に展示された。掲示される写真のサイズは、縦が約1.6m、横は約1.2mとなった。広島平和記念資料館にて、被爆者と関係者から寄贈された約2万点の被爆資料が収蔵されている。

    当時10歳であった少女は、爆心地から東約1.2kmの洋食店の自宅で、右手をついていたら爆風が吹き込んでて被爆した。自宅は2階建ての木造の家屋であった。縁側に続く部屋で座っていた体の右側から強烈な熱線を浴び、爆風で飛び散ったガラス片で負傷した。火災の直前に倒壊した家から脱出した。直接に熱線が当たった右手に重い火傷を負い、くっついた指を離す手術を受けた。やがて少女は成長し、結婚後に2人の子どもを育てながら幸せに暮らしていた。30代になり、がんに侵された。広島原爆病院で手術を受け、持ち直した。がんの転移により体調不全が続くようになり再入院した。1977年に42歳で原爆病死した。

 少女は、定期的にアメリカ原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所)で検査を受けていた。広島原子爆弾による被爆の影響で、悪性骨髄腫により30代から入院と退院を繰り返して、1977年に原爆症により若くして42歳で亡くなった。リニューアル前は、被爆した兵士の写真を展示する予定であったが、兵士の遺族から父親が苦しむ姿を見るのは耐え難いと要望があり、被爆した少女の写真に差し替えられた。兵士は、熱線で頚や腕が焼けただれ、救護所で横たわった写真であった。その他に、やけど治療を受ける少年の写真は身元不明のために見送られた。


7/28/2020

From the memorial to the victims of the atomic bombing of Koreans and the symbol of discrimination and prejudice, a wish for a symbol of peace and a symbol of symbiosis was put in.

世界遺産である原爆ドーム(左)から元安川を挟んで対岸の広島平和記念公園内に朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(中)がある。強制労働等により広島原子爆弾で被爆した朝鮮人の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願って建立された。朝鮮王家の李鍝公が原爆被災後に救出された場所の近隣の“ゆかり”から、本川橋を渡って西詰めに1970年4月10日に建立された。それは旧太田川の本流を挟んで対岸の広島平和記念公園と区別された。その後に広島平和記念公園内への移設を各方面から強い要望が出され、広島市等と協議により、1999年5月22日に広島平和記念公園内に移設された。広島平和記念公園内の北端にあり、付近には平和の鐘や原爆の像がある。移設後は、双竜を刻んだ冠の中に納めた死没者名簿は、韓国の銘石で韓国で制作された亀座部分前方地面の箱の中に納められた。死者の霊は亀の背に乗って昇天する故事から、亀の台座の上に碑柱が建ち、双竜を刻んだ冠を載せた。朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いを込めた。

 長崎県全体に在住した朝鮮人は約7万人など多数に上がった(内務省警保局発表)。長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられた。1945年8月9日にアメリカ軍による長崎原子爆弾の投下と粗炸裂で、朝鮮人は約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。ささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた約1万余の朝鮮人のために、長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑(右)を1979年8月9日に、原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会が建設した(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)。長崎市の平和公園とは約500mも南方に隔てた爆心地公園内に設置された。過去に日本は朝鮮を武力で威かくし、植民化し、朝鮮人を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた。戦争責任を、朝鮮人におわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。

  広島原子爆弾と長崎原子爆弾で被爆した朝鮮人は、戦後に原爆症を伴って帰国して実数は明確ではない。広島原子爆弾と長崎原子爆弾によって被爆した朝鮮人は約7万人と推定される。そのうち韓国に帰国した被爆した朝鮮人は約2万人以上とも示唆される。被爆した朝鮮人は、徴用による強制連行から原爆症から苦難している。慰霊碑はスクリーンともなり、隠蔽するための遮蔽物ともなる。戦争と平和の記念碑には、戦争犠牲者を代賛する象徴となる機能も、戦争における強烈な記憶を隠す機能もある。朝鮮半島の非核化やアメリカと中国・北朝鮮の冷戦の緩和、南北関係の融和を願い、その実現は核を廃絶する道でもある。

  明治維新以後に、朝鮮支配を強めた日本は、1910年の日韓併合により朝鮮を植民地とした。生活基盤を失った多くの朝鮮人は職業と生活を求めて日本に渡たり移民となった。第二次世界大戦中には、日本は労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって多くの朝鮮人が日本で強制労働させた。敗戦時には、日本には約300万人の朝鮮人がいたと推測された。1910年8月22日、日本政府は日韓併合条約を公布し、朝鮮は完全に日本の植民地下に置かれた。朝鮮人は自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失って、日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本終戦時には約2,365,263人に上った。







7/25/2020

17-year-old boy standing outdoors at 1.2mile, Nagasaki, flame burns from ignited clothing, third-degree burns of the back with only epilation.

17歳の少年は長崎原子爆弾に被爆して、新興善救護所に搬送されて収容された。少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立ち上がり立位の時に被爆した。特に、背部の全体は長崎原子爆弾の炸裂方向に向けていた。頭部は左側に回していた。少年は、夏シャツと夏ズボンを装着していた。シャツやズボンなどの着衣は炸裂直後に、炎を出して発火して燃え上がった。そのために、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。おそらく頭部を回してしわが寄っていたために、頸部の周囲には不規則な火傷を被爆していた。写真は1945年10月頃に撮影された。少年は、長崎原子爆弾の炸裂後の爆風によって、殴り倒されたが、意識は消失しなかった。その後に、少年は脱毛を合併したが、その他の放射能による原爆症は発症しなかった。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
 爆撃当日の火傷による死亡率は不明であり、非常に多くの人々が熱と電離放射線の両方に曝されたため、最初の週の死亡率も不明である。しかし、閃光火傷による死亡率は、広島原子爆弾では、比治山高校の51人の少女が爆心地から約762mの校庭にいた。全員が重度の火傷を負い、1週間以内の死亡率は100%であった。約956mで完全にばく露された193人の労働者の死亡率は95%であった。死亡の一部は電離放射線もあるが、数日以内に発生した死亡のほとんどは火傷が原因であった。


7/18/2020

The Hiroshima atomic bomb caused the woman to be exposed on the street about 1.6 km from the hypocenter, with severe burns and keloids on her exposed face and upper arms.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。婦人は、爆心地から約1.6mの路上で被爆した。特に露出していた顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。広島逓信病院に救護されて熱傷の加療を受けた。広島原子爆弾の炸裂後から約1年半経過して、広島逓信病院に1947年2月10日の通院した。被爆者である婦人の顔面と両上肢の熱傷の痕からは異様なケロイドが上皮から厚く膨隆した。ケロイドは、熱傷の修復段階における創傷表面の瘢痕組織の異常増殖である。単純な瘢痕組織の肥大である肥厚性瘢痕とは対照的に、カニの殻や脚に似た不規則な形状の突起を形成する。したがって、「ケロイド」という用語はギリシャ語ではカニを示唆する。瘢痕は通常は二次熱傷によって引き起こされ、ケロイドは一次熱傷から生じる。ケロイドの瘢痕の再発は珍しいことではない。ケロイド瘢痕を除去するために多くの整形手術が行われた。被爆者の火傷や傷口が治ったように見えた後に、傷が厚くなり、ケロイドと呼ばれる腫物ができた。ケロイドは、爆心地から約2 km以内で熱線に曝された人々の約50〜60%に発症した。ケロイドは放射線被爆で悪化し、多くの場合に、触覚が非常に敏感となった。身体の未燃部分から採取されて移植した皮膚も同様にケロイドを発症した。
 ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドを持っている女性は、避難所を対処しても、外出して家を離れることを拒否することが多っかった。さらに背中や肩にケロイドを持っている女性は、その肌を見せることをためらった。原爆投下後された夏でも、広島の被爆者は長袖のシャツを着ていた。他からは「原爆病」として恐れられて、その傷跡のために明白に被爆者は軽蔑された。ケロイド瘢痕は肉体的にも感情的にも障害を伴う。若い女性は、顔や足のケロイドが愛と結婚の障害になって、特に脆弱となった。傷ついた女性の多くは、周りの人たちが受ける外見や軽蔑に絶望していた。感情的な苦痛を抱えながら、多くの女性は勇気を持って、自分の状態を共有している他の被爆者との接触を通じて、自立生活を模索した。ケロイドの被爆者は、原子爆弾の公の好奇心と悪意の対象となり、多くの社会的影響を伴った。雇用主はケロイドの傷のある人を雇うことを望まない。放射線病の症状を持っている人と結婚することを望まない。ケロイド被爆者は、人々から攻撃の生存者として監視されて、炸裂の悪夢を思い出させた。


7/11/2020

At the Ujina Branch of Hiroshima Army Hospital, a U.S. Army research team examined lens cataracts with light intensity through the cornea of atomic bomb survivors.

広島陸軍病院宇品分院にて、1945年9月11日にアメリカ陸軍の調査団員が、救護されて収書した被爆者を訪問診療をした。原爆症による被爆者の角膜を通じる光度により、水晶体の白内障を検査した。1945年8月6日に投下されて炸裂した広島原子爆弾による原爆症に関して、約1月後にアメリカ陸軍が被爆者を調査した。
   原爆放射能は、眼球の水晶体が最も放射能の感受性が高く、放射能障害を引き起こした。放射線により、水晶体上皮細胞が傷害されて、水晶体単位が変性して、後嚢下白内障が生じる。原爆被爆者における術後白内障の有病率は、原爆放射線量とともに著しく増加した。原子爆弾が放射した放射能が誘発した白内障は、特有のドーナツ型の不透明度は、水晶体の後極で著明となる。一面にわたる水晶体の不透明度は、周辺部にも散在した。白内障は、水晶体の老化、糖尿病、放射線、外傷などの原因とで水晶体の混濁が発症した。原爆白内障は、被爆後の約3ヶ月から10年の間に出現して、加齢により視覚障害が進行した。爆心地からの距離が短いほど発生率は高くなった。広島原子爆弾では1948年6秋、長崎原子爆弾では1949年に認定された。
 1928年に設立した国際X線ラジウム防護委員会は、1950年に国際放射線防護委員会(ICRP)に改組され、放射線防護の基本的な枠組みと防護基準を勧告する国際学術機関となった。 放射線防護委員会(ICRP)は、検出可能な水晶体混濁を引き起こすには少なくとも0.5〜2Svの短時間の曝露が必要であり、視覚障害の白内障には5Svが必要であると推定している。眼球被爆ガイドラインは、放射線白内障は、一般に2Gyを超える閾値線量を必要とされた。近年では、眼球被爆ガイドラインの最近の再評価により、放射線白内障の閾値を0.5 Gy /年に、眼球被爆限度を20 mSv /年に下げることが提唱されている。ICRPは2007年に線量限度を勧告した。職業人の線量限度を100mDv/5年かつ50mSv/年、一般公衆の限度を1mSv/年とした。
 原子爆弾の炸裂により被爆して、その後にも影響が残るのは、放射能傷害であった。たとえ、熱傷や外傷が軽微であっても、固縛者は数日から数週間にわたり、放射能による身体障害に罹患する。体温が40度近くにも達して、口や鼻から大量に出血して、下痢、全身の倦怠感を伴いながら、原爆症により被爆死した。大量の放射能をあびた被爆者の身体の細胞や血液が傷害されて、多臓器の傷害、免疫機能の低下して重篤な原爆症が発症して、多数の被爆者が死亡した。

7/04/2020

Epilation of the scalp, beginning on the nineteenth day, three days after the appearance of purpura. Scattered long hairs of the original growth remain. Patient was inside a wooden building at Nagasaki. Leukopenia persisted for two months, but the patient recovered.

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、18歳の女性が、爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆者は、長崎市内の木造の建物の中にいた。原子爆弾が炸裂して、約19日目から脱毛が発症した。その3日前から紫斑も出現した。脱毛は、残存した頭髪が分散して伸びた。白血球減少症は2ケ月間は持続したが、その後に被爆者は回復した。DNAに放射線が当たると、当たった量に相関してDNAの一部が壊れる場合がある。X線1mGy当たり、1細胞で平均1箇所の1本鎖の切断が起こる場合があり、1mSVに相当する。もし2本鎖のDNAの切断は、頻度がなく約0.04箇所となり、約100細胞が均一に1mGy浴びたら、2本鎖の切断が4細胞に起こる場合がある。
 原子爆弾からの強力な放射線の被爆で、細胞の遺伝子(DNA)を切断されて、細胞分裂が困難となる。分裂が不可ならば、細胞は生まれ変われない。身体の外から放射線を照射された場合には、放射線は皮膚を通過する。正常な細胞であった毛母細胞も分裂が困難となり、多くの場合に脱毛が起こる。ただし、細胞に修復能力があれば、毛は再び生えてくる。放射線への曝露は体内のすべての細胞を損傷する可能性がある。毛髪は通常健康な正常組織よりも速く成長するため、頻繁に分裂する細胞ほど損傷を与える傾向がある。そのために、脱毛は最も著明で明白な発現の1つの症状となる。脱毛した被爆者の外見は典型的であった。頭頂部は側面よりも脱毛が多く含まれて、多くの場合、僧侶の剃髪との類似性が印象的であった。極端な場合には、髪は完全に失われた。場合によっては、爆撃の50日後までに被爆者に脱毛が認められたときまでに髪の再成長が始まっていた。頭皮以外の脱毛は非常に稀であった。
  原爆症の脱毛は、脱毛部では、毛髪の母細胞である毛母基、そしてそれに続く内毛鞘、外毛根精が強く傷害されていた。脱毛は早い人で1週間後から始まり、第3週間ころ発症した人が多かった。皮下出血もしばしば合併した。生存者の多くは、約12週間から約14週間で基に戻った。脱毛の発症頻度は、被爆距離に密接に送還した。生存者でみると近距離で被爆した人ほど高頻度であった。毛髪は、毛包または毛球中にある細胞群により作られている蛋白質からできる。放射線または有毒化学物質、例えば、がんの化学療法に使う薬剤などに被曝するとこれらの細胞は壊死する。その結果個々の毛髪は徐々に細くなり、くしを通したとき簡単に折れる。毛髪の喪失すなわち脱毛が発症する。原爆被爆後の数日から数週間の間、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲減退、血便を伴う下痢、脱毛、紫班 または点状出血、のどまたは口内の痛み、鼻咽頭潰瘍、および歯ぐきの衰退および潰瘍、壊死性歯肉炎を合併した。症状の発生時期は異なるが、一般に重度被爆者ほどより早い時期に発現した。


6/27/2020

A boy in Omura Naval Hospital from Nagasaki, Japan, whose second-degree flash burns were caused by the Nagasaki atomic bomb that exploded above Nagasaki on 9 August 1945.

長崎原子爆弾により、16歳の男子の学徒は顔面、上半身、上肢と体幹に熱傷を被爆した。上半身の表皮は、広範囲に浅く剥離した。大村海軍病院に8月9日に護送されて四病舎に収容されて、少年の受傷から2日目の1945年8月11日頃に撮影された。表皮が剥離してびらんした第2度の熱傷を患い、中等度の出血を伴った。リパノール肝油を塗布して、ビタカンフルや高張ブドウ糖駅を注射した。体温が8月26日に約36.4度であったが、27日から約39.0度の高熱になった。朝は約27度で夕方は約39度の弛緩性の熱型となった。9月4日に、白血球数は約4,000で、9月11日の午後4時20分に重症となった。その後の診療記録は不詳である。
 長崎原子爆弾が炸裂した放射性の熱戦により、長崎の少年の全身が火傷に被爆した。長崎県大村市の大村海軍病院に護送されて全身が3度の火傷の写真を撮影された。第二次世界大戦中に日本で起こった長崎原子爆弾の被爆者であり、少年の身体は、放射性の熱戦により、細胞は変性した第2度の火傷で覆われた。少年は放射線被性曝も伴った。長崎原子爆弾によっても、少なくとも約74,000人が死亡し、約75,000人が負傷した。別の原子爆弾はそれ以前の1945年8月6日午前8時15分に、日本の広島市で爆発した。 これら二つの原子爆弾の炸裂した後に、日本はアメリカ軍に降伏して、第二次世界大戦は終結した。
  原子爆弾の炸裂の瞬間の火球は数万度に達する。約0.2秒後には約7,700度から約3秒で熱戦は減衰する。原子爆弾の炸裂で約0.5秒まで火傷は最高度に達する。主に人体に熱傷を起こすのは赤外線であった。原子爆弾の熱線の照射を受けて、表皮組織が一様に浅く侵食されて、下層の健常部と境界が明瞭となる凝固壊死を伴った。表皮の傷害は2度以上で、組織が侵食されて凝固する凝固壊死、5度以上では黒焦げの炭化して、浮腫や浸出液の浸潤は乏しい。直接に人体に達した熱線により、第一次原子爆弾熱傷を被爆する。熱線等により、火災熱傷、焦熱傷、触熱傷、焔熱傷などにより間接的に、第二次原子爆弾熱傷を被爆する。特に第一次熱傷は、原子爆弾に特有の熱傷である。広島では爆心的から約1.0km以内、長崎で約1.5km以内では5度以上の熱傷を被爆した。それ5度以下は、広島で約3.5km、長崎では約4.0kmまで及んだ。  


6/21/2020

Certificates for victims from Hiroshima atomic bomb were issued and distribute by Ujina Police Station, which gave emergency food to them.

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
    御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。

6/07/2020

The ashes that rest eternally in a memorial tower for the dead in the Peace Memorial Park, most of whose ashes are of the Unknown Dead.

広島原子爆弾が炸裂した1945年から23年を経過した1968年にも、広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに虚しく納骨されていた。被曝した直後には、死体は物体のように扱われて処理された。広島市内は壊滅して大混乱して、処置する必要のある死体が数万も散在していた。焼け跡や川縁から軍隊等らにより、死体は運搬されて、約100mごとにまとめて集積された。警察が軍隊に付き添い検死するも、推定できるのは性別や年齢だけであった。氏名なども、わずかに瓦の破片の目印だけであった。原爆供養塔に集積した遺骨のほとんどが氏名不詳の無縁仏となった。アメリカ人捕虜や朝鮮人から中国人などの外国人も納骨されている。原爆供養塔の暗いコンクリートの地下室に、遺骨が密かに雑居している。供養塔内で偶然に身内の氏名を見出して歓喜しても、引き渡された遺骨は骨箱の中で小塊が当たり響いた。
 広島平和記念公園の北端にあたる慈仙寺鼻の川辺には多くの死体が打ち上げられて火葬場となった。一種の供養場となり、1946年には供養塔と納骨堂が建立されて、引き取り手のない無縁仏を納骨した。納骨堂が仮小屋で朽ち果て、1955年の円型古墳様のコンクリート製の原爆供養塔に移設された。さらに広島港から約3kmの似島の救護所の墓標であった千人塚の約2,000人の遺骨を1955年に発掘して、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
 原爆供養塔は、1955年年8月5日に広島戦災供養会が建立した。原爆供養塔のなりたちは、爆心地にの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれて、荼毘にふされた。氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するため、1946年に市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立された。その後10年経った1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納骨した。土盛り原爆供養塔の内部には、納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が納められている。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年 公開し、遺族を探している。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、2007年6月でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っている。合同慰霊祭は、1946年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれる。毎月6日には例祭がとり行われる。桃山時代の御陵を模した円形の土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている(直径16m、高さ3.5m)。 広島平和記念公園内に被爆者の遺骨を納骨することは不当とされて、原爆慰霊碑の石棺に過去帳の氏名のみが奉納されている。無縁仏となった遺骨のみが、原爆供養塔に納骨されている。




5/30/2020

Many atomic bomb survivors of the Nagasaki atomic bomb were scattered at a temporary rescue station at Michino Station, and the burned survivors were treated with tink oil.

長崎原子爆弾の爆心地から北方約3.6kmの長崎本線の道の尾駅の付近の臨時救護所に多数の被爆者が集散した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに熱傷の被爆者が応急手当てを受けた。両手から両上肢に熱傷を受けた被爆者が、大村海軍病院の看護婦が用意した洗面器に中に両手を漬けた。洗面器の水にはチンクオイルを含めた。チンクオイルは、酸化亜鉛を含み、皮膚を保護し、炎症を低下させる薬効があった。火傷からの浸出液を吸収して乾燥させた。皮膚の再生を助けて、皮膚保護薬として使用した。重症の被爆者は、大村や諫早、川棚の海軍病院に列車で護送された。道ノ駅には、壊滅した長崎市北部からお昼午後12時頃から被爆した負傷者や避難者が滑石の道に長蛇の列が形成された。むしろがけの2つの小屋の臨時救護所に約200人もの被爆者が収容された。約3,500人もの重症の被爆者は、救援列車で大村駅あるいは諫早駅などに護送された。列車に乗り込む被爆者は、プラットホームに一杯に待機する行列ができた。
 長崎本線は浦上駅、長崎駅の駅舎が全焼失して、倒壊して職員約157人が死傷した。路面電車の長崎電気軌道も壊滅的な被害を受け、車両約16両が焼失、約120人の社員が被爆死した。原爆救援列車として、8月9日の長崎原子爆弾投下の直後に、長与駅を出発した計4本の列車である。正午過ぎに最初の救援列車が出発した。最初の救援列車は、爆心地から約1.4kmほど離れた道ノ尾駅と浦上駅の中間にある昭圓寺付近で運行することが困難となった。そこで被爆者を収容してから、さらに道ノ駅で被爆者を詰め込み諫早へと向かった。長与駅で被災していた上り列車が、8月9日に最終の救援列車として運行するなど、8月9日に4本の救援列車が奔走した。約3,500人の被爆者が諫早、大村、川棚の各海軍病院などへ運ばれた。道ノ駅の長崎原子爆弾が1945年8月9日の午前11時2分に投下されて、初発の原爆救援列車は、長与駅から13時50分頃に爆心地近くの道ノ尾駅を発車して、15時頃に海軍分院院のあった諫早駅へ到着した。列車の中は足の踏み場なく被爆者が横たわった。

5/24/2020

Female, 1.77km, Hiroshima, in Red Cross Hospital. Deep laceration by fragment of glass, October 5. Flying debris caused the largest number of casualties.Photograph taken October 5.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.77kmで女性は被爆した。10月5日の時点で、女性の左顔面がガラスなどの飛散破片により、重度の皮膚損傷を受けた。創部に沿って目尻から口唇までケロイド状の瘢痕を伴った。被爆者として広島赤十字病院に護送されて、ガラスの破片による深い裂傷の救護された。

爆風による飛来破片による身体損傷
 原子爆弾が炸裂した爆発による間接的な負傷は、高爆発性の爆弾の場合と同様に、直接的な負傷よりはるかに多い。広島と長崎では、間接型の致命傷はほぼ完全に破壊された地域で発生した。
 広島と長崎の原子爆弾の臨床視察では飛散破片が生存者の中で最も多くの死傷者を引き起こした。爆風による致命的ではない飛散破片の負傷が死傷者のほとんどを占めた。爆風の力が最も大きかった内側の地帯では、ほとんどすべての自由な物体が致命的な弾丸に変換された。特にガラスの破片が裂傷の最も頻繁な原因となった。大きな破片が、時々窓の反対側の部屋の壁に打ち込まれた。深い裂傷はそのような破片から生じた。より小さなものは、小さな破片によって生じた複数の裂傷となった。この原因による末梢神経および血管の損傷が多発して、動静脈動脈瘤が時々に生じた。広島の原子爆弾の軍事救護病院では、治療された爆風による損傷の54%が挫傷、35%が裂傷、11%が骨折に分類された。爆風による死傷者の即死のほとんどは、建物とその中身の落下によるものであった。骨折は比較的まれであり、生存者のわずか4%で発生しが、発生率は低いにもかかわらず、その数は医療の過負担となった。しかし、多くの非生存者は重度の骨折をした可能性がある。日本では、骨折の治療は、放射線損傷の存在下での遷延治癒と、そのために骨折の固定が困難であり、開放創のある複雑骨折も伴った。地面に投げたり、固形物に衝突するなどの暴力的な飛散が頻繁にあり、被爆者はこの発生源から死傷した。
 
 爆風による直接的な内蔵損傷
被曝して直接的な爆風で肺損傷がある動物では、直接的な爆風損傷の肺の証拠がある動物では、40%にも腹部臓器に出血があった。最も影響を受けやすいのは大腸で、次に肝臓、脾臓、腎臓、膀胱の順であった。中枢神経系への損傷は、高度の脳圧を必要とした。広島と長崎の原子爆弾では、約300m以内で地圧が約241,000パスカルを超えても、深刻な爆風による直接的な損傷の証拠はほとんどなかった。この地域の少数の生存者によって部分的に説明される。日本の視察者は爆風による内臓への直接的な損傷の事例を発見することができなかった。即時の死傷者の剖検では、肺への爆風損傷の典型的な病理を見いだせなかったが、肺気腫と無気肺の病巣は発見した。共同委員会が調査した広島の生存者のうち、鼓膜が破裂したのは爆心地から約1.0km以内であっても1%未満であった。約1.5kmを超えると、発生率は0.1%未満であった。
 広島原子爆弾の生存者では、爆発の直後に検査された371人の患者のうち8人(2%)のみが鼓膜の破裂を起こた。371人のうち19人は一時的な難聴であった。その集団の76%は約2.0km以内であった。長崎の原子爆弾では、1945年10月に198人の生存者(全員が約1.0km以内)を検査し、破裂した鼓膜は8人が見出した。アンケートで調査された広島と長崎の両都市の生存者の中で、どの距離でも1%未満が難聴の状態を報告し、約3.0kmを超えた被爆者には見いだせなかった。めまい、耳鳴り、頭痛、トラウマの形跡のない意識喪失など、その他の明確に定義されていない症状は、爆風に起因する可能性があった。広島と長崎の両都市で調査された生存者の約15%が、めまい、耳鳴り、または頭痛を訴え、ほとんどは約2.5km以内であった。一時的な意識の喪失は、広島の原子爆弾の生存者のほぼ6%で、ほとんども約2.5kmマイル以内にいた。意識の喪失は直接の爆風ではなく暴力的な移動によって引き起こされたと想定された。日本より低い標高で原子爆弾が炸裂した場合には、熱と電離放射線が致命的な影響を及ぼすので、生存者間の直接の爆風損傷の相対的発生率が相対的に低くなる可能性がある。しかし、より大きなエネルギーの原子爆弾の場合には、爆風圧は距離が遠くなるほど高くなり、爆風圧の曲線は電離放射線の致死効果よりも急速に上昇した。


5/16/2020

Burn patients overwhelmed the beleaguered staff of Hiroshima Red Cross Hospita where facilities and resources were so limited that many patients had to be treated outside the building.

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の炸裂によって、人的にも物的にも大規模半壊を受けた医療設備と医療資材がが限られているため、多くの被爆者には建物の外でも治療を受けるしかなった。多くの被爆者が広島赤十字病院の建物外でも扱われる必要があった。
 広島赤十字病院は広島原子爆弾の炸裂から全壊は免れたが、建物はかなりの被害を受けた。膨大な被爆者に病院職員は圧倒された。広島赤十字病院自体の人的・物的打撃が甚大であり、医療機能も停止状態となった。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医師や職員らは院外にいた者も含め約51が死亡し、約259人が重軽傷を負った。一度に数千人の負傷者が殺到した。残余のわずかな医療機械・医薬品による救護活動に限定された。広島市内の医療機関が壊滅状態にあったため、医薬品の補給もつかず簡単な応急手当でさえも難しい状態で、不眠不休での治療が続いた。病院の衛生状態は、控えめに言っても最低であった。ハエは、その場しのぎの病院のすべてに飛び回っていた。医師と看護師らと広島赤十字病院の外来では重症度の軽い火傷者を治療した。
 広島原子爆弾の炸裂による火傷からの外観の異常に加えて、多くの被爆者は、線維組織の過度の増殖の結果であるケロイド瘢痕を患っていた。ケロイド形成の発生率は、1946年から1947年の間にピークに達した。ケロイドの瘢痕は多くの被爆者の首と頬などに見られた。典型的な火傷の被爆者はや多くの傷跡を残した。原子爆弾の炸裂による熱射の火傷に起因する色素異常を患った。関節またはその近くに火傷を負った人は、特に回復が困難で障害を伴った。肥厚性瘢痕および関連する拘縮により、被爆者は稼働制限を伴い、動作痛を伴った。関節の周りに深刻な火傷を負った多くの犠牲者にとって、回復への道は困難でした。多くの被爆者は、熱傷によって破壊された組織の広い皮膚領域を、再生するために広範な皮膚移植を受けた。不幸な場合では、皮膚移植が常に成功したわけではなかった。接合は部分的に成功しても、広範な瘢痕化につながった。外傷性白内障や白血病などの病気は、1947年頃から頻発して出現して、この時期に頂点に達した。衣服で保護されても、一症例では首を開いたシャツで火傷を負って、1946年12月14日時点には胸にケロイドができていた。

5/09/2020

Twenty-three crew members of the Japanese fishing vessel Daigo Fukuryū Maru also contaminated by the heavy fallout, experiencing acute radiation syndrome from Castle Bravo.

第五福竜丸無線長であった久保山愛吉は、1954年3月1日のビギニ環礁におけるアメリカ軍のキャッスルブラボー(Castle Bravo)の水爆実験により放射能を大量に被曝した。最も重篤な40歳の久保山愛吉は国立東京第1病院に入院中に、8月29日に骨髄炎を併発して、1954年9月1日にベッドに寝込んで家族の見舞いを受けた。水爆を被曝した直後から、嘔吐、食欲不振、頭痛、めまい、下痢と倦怠感などが出現した。約3日目から外皮膚が赤くただれ、約10日目から水疱化して、頭髪が大量に脱毛して、急性水爆症に罹患した。3月14日に焼津協立病院で加療されて、重態の2人は3月15日から東京大学病院に転院した。は異変を併発して1954年9月23日に、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して国立東京第一病院で水爆症死した。
  第五福竜丸は156トンの漁船で、焼津港から南太平洋でマグロ延漁をしていた。第五福竜丸は、3月1日午前4時12分に南太平洋のビギニ環礁にて操業中に水爆実験の放射能降下物に被曝した。その他にも、マーシャル諸島の住民なども水爆の被曝に巻き込まれた。3月14日に焼津港に帰港して、3月16日に第五福竜丸事件が発覚して報道された。その事件後も、アメリカ軍の水爆実験のキャッスル核兵器作戦は、継承されて3月27日から6月20日まで5回の水爆実験が強行された。第五福竜丸は、アメリカ軍が設定した立ち入り禁止区域よりも遠方であるも、想定以上の水爆の威力により被曝した。
 第五福竜丸の船員は、突然に南西の海面から火炎のきのこ雲の噴出を目撃した。それから凄まじい爆発音、爆風、熱風が第五福竜丸を襲った。閃光から約3時間経過した午前7時頃から放射能降下物である死の灰が甲板一面に降り積もった。爆心地であるビギニ環礁から北西約168kmで、第五福竜丸の船員23人の全員が約300R以上の被曝した。直ちに午前10時30分頃に延縄を引き上げて、時速9Kmで約3,000km離れた焼津港に帰還した。第五福竜丸の船体は、東京都の夢の島公園に「第五福竜丸」に展示されている。
 アメリカ政府の公式な見解では、水爆には放出される放射能の同等の増加は伴わず、乗組員が放射性降下物の影響を受けたことを否定した。水爆の核分裂の最終段階が、広島原子爆弾と長崎原子爆弾に対して、放射能量が約1,000倍にも膨大した脅威が示唆された。日本政府のアメリカ軍の抗議で、外交関係が緊張して、「第二の広島」と呼称された。日米両政府はすぐに収束して、犠牲者に被爆者の地位が与えないことも合意した。金銭的補償としてアメリカ政府から日本政府に15,300,000ドルを転嫁して政治的和解に達した。生存した各被爆者には、1954年には5,550ドル、2020年までに約52,800ドルを補償で終結した。




5/02/2020

Unidentified cadaver by Nagasaki Atomic Bomb in Omura Naval Hospital with Purpuric lesions and ecthymatous ulceration around wounds from glass fragments.

長崎爆弾の被爆者が、大村海軍病院に救護された。しかし明細は不明であるが、大村海軍病院において被爆者は8月末に死亡した。長崎原子爆弾が炸裂した爆心地からの距離も不詳である。多数のガラス破片が、上半身の皮膚に刺入した。その刺入傷の周囲に膿瘍を伴った潰瘍を生じた。その周囲には紫斑を伴っていた。
 原子爆弾による紫斑病は、または皮膚の下の出血は、急性放射線病による原爆症の1つである。原爆投下後の数日から数週間、原子爆弾に被爆した被爆者は、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、血性下痢、脱毛、紫斑または点状疱疹、喉や口の痛み(鼻咽頭潰瘍)、腐敗と潰瘍、歯の周りの歯茎(壊死性歯肉炎)などの合併症を伴った。これらの原爆症の発症時期はさまざまであるが、重度の被爆者がより早く原爆症を発症した。
 急性放射線の主症状は、脱毛、紫斑及び下痢などがある。放射性物質による被曝の影響は、爆心地からの距離とともに増大して、約1.5kmで急性放射線症状の影響が最も出現した。爆心地から約6kmも遠位でも少なくとも残存した。最大の急性放射線症状には、ガンマ線(γ線)に影響された。原子爆弾の炸裂後の6週間後に測定された残留放射能は、広島では約6〜25レントゲン、長崎は30〜110レントゲンであった。
 初期放射線は、原子爆弾の炸裂後の約1分以内にγ線と中性子線による瞬間的な外部被曝した。約1分後からは、放射性降下物と誘導放射化物質により被曝した。放射性降下物は、原爆の核分裂による火球から原子雲そして黒い雨と黒い煤などの放射性微粒子を被曝して、広範囲の原子雲により遠距離まで被曝した。誘導性放射化物質は、主に中性子により、爆心地周辺に集中して、直爆被爆者にも入市被爆者にも内部被曝した。