4/29/2023

George Test, Operation Greenhouse, May 8, 1951. This 225 kilotons bomb, detonated at Enewetak, was the first true test of thermonuclear fusion and a precursor to the hydrogen bomb.

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦(Operation Greenhouse)のジョージ(George)実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。ジョージ実験では、きのこ雲の頂上付近に完璧なベル・ウイルソン雲を形成した。熱核融合の最初の本格的な核実験となり、水爆の前身となった。熱核融合(熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験となった。ジョージ実験は、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究するための実験であった。ジョージの核実験の結果をもとに、重水素の核融合を確認して、初の多段式ウラム水爆実験の準備を進めた。

 1951年にアメリカ軍は、熱核反応による最初の核実験場での爆発実験を行った。ジョージ実験は、1946年に特許を取得した放射線照射原理で作動する二進法開始器を備えた古典的なスーパーモデルの核実験であった。地球上で初めて燃焼した小さな熱核の炎を点火した最大の核分裂爆発となった。シリンダーと呼称した実験装置は、濃縮ウラン炉心で構成され、独自の円筒爆縮システムによって爆縮された。核分裂の連鎖反応を外部から開始させた最初の装置であった。ジョージ実験は、アメリカ軍の核実験のうち、およそ40回目の核実験であった。

 グリーンハウス作戦は、1951年4月から5月にエネウェトク環礁で実施した。4つの比較的高収率の核実験であり、ドッグ、イージー、ジョージ、およびアイテムの呼び名で構成された。ドッグとイージーは、それぞれMk 6とMk 5という2つの新しい戦略爆弾の実証試験であった。ジョージとアイテムは、熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験であった。ジョージは、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究する核実験であった。



4/22/2023

A young woman (22years old) visiting the outpatient clinic with many Atomic bomb survivors at the Hiroshima Red Cross Hospital was exposed to burns on her face and upper arms at the Minami Bridge, 1.7 kilometers south of the hypocenter.

 広島原子爆弾に被爆した陸田豊子(22歳、女性、くがた とよこ)は、荷車の大八車を隣の農家から借りて、日赤病院に通って治療を受けた。通院の姿を10月4日に旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池俊吉が撮影した。10月6日には、日本映画社の原爆記録映画班の山中真男に、広島赤十字病院の外来治療室の映像を撮影された。

 陸田豊子は、広島市中区本通の安田生命広島支店に通勤途上で、1945年8月6日午前8時15分に、広島市吉島本町3丁目の実家から歩いて南大橋を抜けた地点で広島原子爆弾が炸裂した。爆心地から南約1.7km地点の南大橋で閃光にさらされ、元安川へ吹き飛ばされた。大手町方面に渡る気力もなく橋の柱につかまっていた。岸や川に無数の無残な死体を、軍隊の船が宇品まで運んだ。陸田豊子は、宇品凱旋館を拠点の陸軍船舶司令部の軍隊に救助された。

 陸田豊子は、油を塗られてムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、海路で玖波国民学校へ移送された。旧玖波町の収容患者名簿に陸田豊子の名前が残って、重傷者を示す◯印が付けられた。約80人が収容されて、終戦前日の8月14日までに約11人が死亡した。陸田豊子の名前が広島市で張り出され、母と親類の兄とが荷車で迎えにきた。8月24日に吉島本町の実家に戻った。

 アメリカ軍は、原子爆弾の記録写真等を接収をワシントンの陸軍病理学研究所に秘蔵した。1973年に記録写真等が日本に返還されて「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開された。荷車の親子と称された。父の妹のコヒデが荷車を引いていた。母親も、吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取った。治療費を工面して、足の火傷で歩行困難な陸田豊子を日赤病院へ通院させた。

 1946年に元職場へ復帰して、その後東京に転勤した。陸田肇さんと結婚し、電機メーカー勤務地である栃木県小山市に定住した。陸田豊子は「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増えた。こういう写真でしか分からないんでしょう。原子爆弾でどうなるのかを見て分かってほしい」と祈念した。



4/15/2023

This was the main gate of the Hiroshima First Army Hospital Ujina Branch, which was located in Ujina-cho, Hiroshima City, approximately 3.9 km south-southeast of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。その建物の多くは木造だったが、広島原子爆弾の爆風被害は、ガラス窓の破損と屋根瓦が飛んだ程度でわずかだった。8月6日午前8時15分の被爆直後から被爆した負傷者たちは続々と船舶練習部に避難して殺到した。各々の被爆者に応急処置をして収容するのは困難であった。8月6日午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運搬され続けた。停電の中で、懐中電灯やロウソクで徹夜の救護活動が続いて、戦場の野戦収容所を呈していた。

 大和人絹広島工場は、太平洋戦争時下に1942年12月に操業を休止して、日本陸軍に接収された。1943年2月から日本陸軍が賃貸して工場の約3の2が陸軍船舶練習部に使用された。大和人絹工場(大和紡績工場)の中央上部の従業員寮は、東京第一陸軍病院の職員が、負傷者の治療の病院として使用した。工場敷地内には、その他に陸軍船舶練習部、陸軍砲兵教導聯隊が所在した。1945年8月9日に、臨時陸軍野戦病院が設置された。

 8月25日になって、広島第一陸軍病院宇品分院に転属となった。船舶練習部(南3.9km)の正門に、廣島第一陸軍病院宇品分院の門標がかかった。陸軍船舶練習部は、臨時野戦病院から次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり、約6,000人以上の被爆患者が収容された。宇品分院には被爆直後に収容された患者のほか、その後に他救護所から次つぎと患者たちが護送された。広島第1病院宇品分院が一般から原爆専門病院として認識された。原爆病の探求のために、東京陸軍病院、軍医学校、東大医学部などの多くの医療専門家の拠点となった。アメリカ軍の医学調査団が、10月14日は広島第一陸軍病院を接収した。陸軍船舶練習部の敷地は、現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存した。



4/08/2023

The Chugoku Shimbun building, about 0.9 km east of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, burned down and collapsed; on August 8, a streetcar collapsed in front of the Chugoku Shimbun headquarters building, where boy suicide attackers from the Akatsuki Unit were assembled.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。



4/01/2023

After the Hiroshima atomic bomb was dropped on August 6, 1945, an outpatient examination room on the first floor of the Hiroshima Telecommunications Hospital was photographed around October 8, 1945, when an average of 300 A-bombed patients flooded the hospital each day.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院(Hiroshima Posts and Telecommunications Hospital)には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。8月8日から広島逓信局が疎開した1階の畳で約100枚を、被爆患者を収容するベッドに活用した。広島逓信病院の逓信局1階と焼上した2階が診察室と病室になった。広島逓信病院が収容する被爆患者数は、平均約220人に達した。終戦の日の8月15日までに約66人が被爆死した。

 広島逓信病院は、広島原子爆弾の爆心地からの距離は北西西約1.37kmで、現広島市中区東白島町19番16号に所在した。原子爆弾の爆風が窓を吹き飛ばし、鉄筋コンクリートで倒壊は免れた。近隣からの類焼などにより、特に2階は大部分は全焼した。新館は特に大きな窓が特徴で、爆風で窓枠が飴のように曲がってしまった。

 広島市内の医師や医療関係者は、何も知らない放射線被爆や従来の外傷にもほとんど手を出せなかった。病院は、ほとんどが破壊された地域にあり、約9割以上の医療関係者が被爆の瞬間に原爆死した。医療機器や医薬品など、被爆患者を治療する必要な資材は破壊された。原子爆弾の炸裂から数日たっても放射線は危険なレベルにあり、傷を負わずに済んだ被爆者が、突然に髪が抜け、鼻血が止まらず、臓器の大量出血が出現した。1945年末には、広島市内の原子爆弾の犠牲者は約90,000人から約150,000人にまで増悪した。

 アメリカ軍の空襲に備えて、入院患者を退院させ疎開して、入院患者の被害は最小限であった。病院職員は、48人中5人が死亡(うち1人が病院内で死亡)、7名重傷、25人が軽傷の被爆した。数多くの被爆患者が広島逓信病院に押し寄せ、医療関係者は懸命な救護して、広島市内に残った数少ない医療機関として重要な役割を果たした。現在は、1995年に改装された旧外来棟の一部に被爆資料室が整備された。当初は1922年に逓信関係者に向けた広島逓信診療所として開設された。1942年に広島逓信病院(入院施設12室・30床)に改装された。


3/25/2023

Outpatients at an improvised relief hospital at the Shinkozen elementary school. Mid-September, 1945. Shinkozen elementary school relief station, about 3 kilometers south of the hypocenter from Nagasaki Atomic Bomb.

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




3/11/2023

When the Hiroshima atomic bomb exploded, a 33-year-old army officer was exposed to the bomb on the second floor of a wooden structure about 2 km from the hypocenter and developed acute otitis media and acute mastoiditis.

 広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

 体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。


















  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。







 経過

 1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)

2/25/2023

Hiroshima Communication Hospital was crowded in the outpatient rooms for a war victims with Hibakusha patients who needed treatment, just after Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。



2/11/2023

A Streetcar of Hiroshima Electric Railway was burned down by the Hiroshima atomic bombing in August 1945 near Nishi-Tokaichi-cho, about 700 meters west of the hypocenter, leaving only its skeleton.

 広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。



2/04/2023

Burn victims of female students of Hiroshima Women's Vocational School due to the Hiroshima Atomic Bomb were admitted at the Okawa National School for Temporary Field Hospital. The atomic bomb survivors were laid on the straw mats laid out in a classroom at the school.

 広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。



1/28/2023

On September 16, 1945, a mother and her child were seen cooking on an improvised outdoor stove outside a temporary building amidst the ruins near Ienomachi, Nagasaki, about 1.4 km north of the hypocenter of the Nagasaki atomic bomb.

 1945年9月16日、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近でアメリカ軍が撮影した写真である。屋外で調理する人々の姿が見える(写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局)。長崎原子爆弾の爆心地付近の廃墟で、母親と子どもが生活していた。中央の壁がない仮設の建物の下で眠り、即席の野外コンロで調理していた。

 多くの被爆者が避難し、田舎や離島でより困窮しない生活を求めて、何日も何週間も歩き続けた。遠い親類縁者との生活に耐えかねて、同じ苦悩をする被爆者に囲まれた長崎市に戻る人もいた。ホームレスの被爆者は、薄っぺらな小屋に住み、土間や瓦礫の中の畳の上で寝た。家具もない一部屋に約15人も住むこともあった。水道は不全で、山から湧き水を汲んで、雨水を溜めて沸かして飲んだ。トイレもなく、小屋の外に穴を掘って、木の板で覆った。浴槽もなく、大きなドラム缶でお湯を沸かし、立ったまま入浴した。冬の風に、家族は衣類や毛布をたくさん重ね着し、傘をさして薪ストーブを囲み、屋根から落ちる雨やみぞれ、雪を防いだ。真っ暗な夜、廃墟を歩く被爆者は、ガラスの破片、古い釘、木片、割れた瓦などで足を切った。

 長崎市内の福祉施設はまだ稼働せず、多くの孤児が路上生活を余儀なくされた。カトリックのノートルダム修道院の修道士らが約100人以上の孤児を引き取り、秋月博士の第一浦上病院などが無料の医療を提供した。救護班が身元不明の赤ん坊を養子にした。行き場のない少女たちは売春をし、孤児となった少年たちは、数ヶ月から数年間、一人または二人で駅や橋の下に住み、物乞い、盗み、食物を探し、鉄道当局や地元の警察から厄介者扱いされながら、地域を徘徊した。妊婦は、胎内で被曝して死ぬ、奇形児が生まれるという噂におびえ、医師や助産婦の手を借りずに廃墟の中で出産した。実際に、子宮内被曝児の死亡率は高かった。爆心地から約500m以内の妊婦は約43%の確率で自然流産、死産、乳児突然死を起こした。



1/21/2023

In the early morning of August 10, 1945, about 2.5 km south-southeast of the hypocenter of the Nagasaki atomic bomb, a Nagasaki citizen was wandering around Nishinaka-cho, Nagasaki City, searching for their relatives.

 長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である1945年8月10日早朝における長崎市西中町に長崎市民らが肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊した(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。



1/14/2023

Michihiko Hachiya, director of the Hiroshima Hospital for Disaster Relief, was exposed to the atomic bomb at his home, about 300 meters away. He rushed to the hospital, covered in blood, with shards of glass and other debris piercing his body.

 広島原子爆弾が1945年8月6日土曜日午前8時15分に投下され炸裂して、広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、被爆者治療の陣頭指揮を取った(ヒロシマ日記、法政大学出版会)。焼け落ちたヒロシマ逓信病院の病室前で、蜂谷道彦院長は撮影された。8月11日に抜糸して、蜂谷道彦院長はヒロシマ逓信病院内を動けるようになり、さっそく院内回診、被爆患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するように指示した。

 1945年8月6日土曜日の朝、突然と周囲が明るくなり、強い光がすうすうと二度つづけて強い光が差し込んだ。右太腿に棒切れが突き立った。血が胸を伝って流れ出し、右首に刺さったガラスを引き抜いた。頸動脈の付近から血が吹き出した。頸動脈ならもう駄目と観念した。丸裸になって屋内から飛び出した。自宅が、土煙をたてて倒壊した。

 広島逓信病院に避難するも、右下肢が重く、喉がかわき、息切れがした。近くの街角で、兵隊からタオルを貰って腰に巻き、家内のエプロンを取って前にかれてふんどしにした。全身が血みどろになった。右大腿の肉の塊が引きちぎれて出血した。無我夢中に、薄明かりでコンクリート建て広島逓信病院に辿りついた。幽霊のような姿の被爆患者がうろうろしていた。周囲には無言の死体が散乱していた。玄関の待合には、無数の被爆患者が詰めかけた。無理やり担架に載せられて小遣い室の部屋に搬送された。

 静寂の凄惨が、俄然に一変して、現実が阿鼻叫喚となった。病院内が、戦場のように騒々しく唸った。熱風と火の粉が落ちて寝衣が炎上した。四階建ての広島逓信病院の窓から火が吹き出した。渦を巻いて風が一変した。道を隔てて向こうは火の海となった。広島逓信病院のコンクリートの鉄の窓が、焔の中で真赤に揺れた。見通しのきく北側や東側は見渡す限り焼け野原となった。8月6日夕暮れに硬い台上で、身体を次々と約30ヵ所縫合された。


1/07/2023

Immediately after the Hiroshima atomic bomb exploded, the three-story wooden Nishi Fire Station collapsed instantly, and the East Fire Station on the first floor of the former Fukuya Department Store burned to the ground and the firefighting function was completely destroyed, with numerous black smoke flames rising from the city.

 広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して、直後から発生した火炎によって、全てが焼失して灰塵に帰した。爆心地から南南東約2.6kmにあった西消防署庁舎の建物は、1945年4月に設置された木造3階建ての新庁舎は崩壊した。焼跡中央部に見えるのは、無残にも焼けただれたはしご車である。西消防署の倒壊から炎上によって、西消防署の署員の約23人が即死して、その後に約34人が原爆死した。消防車は約8台が焼失した。



 東消防署は、広島原子爆弾に被爆した直後に、爆心地から東に約700mの旧福屋内の耐火性の建物内は全焼して、建物の構造は留めた。被爆によって、署員の約24人が即死して、約16人がその後に原爆死した。消防車は約7台が焼失した。消防車は無残にも焼き焦げた。すべてのタイヤは、焼失していた。東消防署の消防機能は、全く停止して、消防活動も不可となった。



 広島市の消防の本拠地として、大手町に西消防署、八丁堀の旧福屋1階に東消防署があった。甚大なる建造物の崩壊、火炎、火傷などが瞬時に同期した。本拠地の消防機能は焼失して、火炎が各地で散乱した。特に壊滅的な被害は、爆心地に近い西消防署と東消防署に及んだ。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の閃光に続いて激烈な爆風が通過して直後に、広島市内から黒い煙の多数の火炎が市内から立ち昇った。午前10時から午後2時までが、火炎が最も強力であった。夕方から火炎は萎縮するも、その後も約3日間燃え続けた。

 広島市の比治山には、殉職消防組員之碑が建立されている。この碑は、被爆以前には、水主町武徳殿に設置されていた。原子爆弾によって三つに割れた碑を、1950年11月に修復して比治山に移管され、約785柱が合祀された。

12/31/2022

A youthful soldier at Hiroshima Red-Cross Hospital after receiving treatment given in the open for the burns suffered. Late in September. Photo: MATSUMOTO Eiichi.

 1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けていた。松本栄一が撮影した。8月6日の広島原子爆弾の炸裂した直後から、広島市内の被災の復興から、9月18日には、被爆者の死体や遺骨は処理された。

 朝日新聞社の出版写真部に所属した松本栄一は、「科学朝日」の取材で、長崎原子爆弾を8月25日から9月15日まで、被爆地の長崎市内を撮影した。その後に広島原子爆弾の被爆を9月18日から9月25日まで広島市内で撮影した。枕崎台風が広島を直撃した翌9月18日から広島市内に入って撮影した。爆心地から全壊全焼の区域に残った建造物などや被爆者の被害を記録した。呉の江田島駐在の暁部隊が広島原子爆弾が炸裂した直後から広島市内に駐屯していた。

 朝日新聞大阪本社は、8月10日付け(半沢・松本特派員発)に「浦上天主堂も壊滅、長崎の惨禍」の見出しの約100行ほどの記事で、初めて原爆の報道が発信された。朝日新聞大阪本社は、8月15日付で「正体を残した原爆」で、はしごの人影の写真が掲載された。 

 アメリカ軍の検閲とネガ提出命令に対し、個人で写真を守り通した。撮影された数百枚の写真は、GHQ占領下にて原子爆弾に関する報道は、占領軍によって厳しい検閲をされた。写真だけでなく、ネガの提出も求められ、自主的処分と弁明して、個人ロッカーに秘蔵した。その後に、1952(昭和27)年8月6日の『アサヒグラフ』で、原子爆弾の戦争被害の特集が約70万部で初公開された。1952年4月28日にアメリカとの旧安保条約発効に伴って、プレスコードが廃止された直後に出版され、全世界に強烈な衝撃を与えた初の原爆被害写真集となった。



12/24/2022

School classrooms have been turned into a temporary hospital for Nagasaki Atomic Bomb occupying the whole of the second floor of the Shinkozen elementary school. Pre-school children, with their injured family members, are accommodated herc. Early September, 1945.

 新興善国民学校の2階は、学校の教室がそのまま仮設病院になっていた。1945年9月上旬に未就学児とその家族が入所していた。新興善国民学校は、特設救護病院となった。入院して床の上に敷いた布団で被爆者の子どもが手当を受けた。顔面から頭部に火傷していた。朝日新聞西部本社のカメラマンだった富重康夫が1945年9月上旬に撮影した。

 長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日午後に、針尾海兵団の救護隊約249人が集結して宿泊した。医療材料や関係者も参集して、長崎市民が治療を受けにぞくぞくと集まった。約4列に寝かせて1教室あたり約60人を収容して、1階から3階までで数百人が収容された。しかし、収容された被爆者は次々に死亡し、入院患者は詰め寄った。 

 新興善国民学校は長崎原子爆弾による炎上から免れて、鉄筋コンクリートで堅固だった。原子爆弾が炸裂した直後から救護所として使用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として活用された。新興善国民学校は、医療救護などの救護所の一つであった。爆心地の周辺では、長崎医科大学や救護所が崩壊したので、南に約3kmの新興善国民学校に被爆者が殺到した。8月17日から約15日間で、約8,000人の被爆者が治療を受けた。

 敗戦の翌日の8月16日に、新興善救護病院となった。1945年10月から1951年12月まで、坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となった。1952年に新興善国民学校の跡地は、長崎市立新興善小学校が開校した。1997年に統廃合で閉校して、2008年1月5日に長崎市立図書館が開館した。長崎市立図書館の1階に、救護所メモリアルに新興善国民学校を再現した遺品が展示されている。














12/17/2022

Hijiyama National School was located approximately 2.8 km southeast of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb and escaped the fire. Immediately after the bombing, a large number of injured A-bomb survivors were evacuated. The school was designated as one of the 13 relief stations declared by Hiroshima Prefecture on August 7, 1945.

比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにあって、火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者市民が避難した。広島県は、広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に布告した救護所13カ所の一つが比治山に指定された。教諭らも泊まり込んで救護を手伝った。火傷や負傷して被爆者は、広島市周辺の比治山国民学校に避難した。比治山国民学校の教室にいた児童約50人はガラス片などで負傷したが、命は無事であった。3年生以上の児童は、広島県佐伯郡津田村(現廿日市市)などへ集団疎開していた。

 昭和二十(1945)年度日誌広島市比治山国民学校の日誌には、8月9日に「罹災患者依然多数呻吟ス」と記載された。原子爆弾の投下で未曾有の混乱に陥っていた。行政関係の文献である『広島県史』原爆資料編には、広島県の公式記録「第1号戦災記録 広島県」として、8月7日に県知事の救護所布告で13箇所の救護所開設が告示された。被爆して7日後には、救護所は自然発生的に増加して約53箇所に達した。

 比治山国民学校には、8月8日午後4時から広島市社会課が主管した迷子を収容する孤児収容所も併設した。保護者の生死が不詳な児童の救護も開始した。8月9日には、孤児収容所モ漸時収容サレテ二十四名トナルと記述された。28歳の母親の手記にて「母を求めて泣き叫ぶ赤子」に「乳を含ませてやると」「やがてスヤスヤと眠り始めた」が、数日後に「死んでしまった」と極限下の保育が続いた。9月2日までに受け入れた迷子は計約91人(うち女児36人)に達した。そのうち約18人が親に、約14人が親族に引き取られた。約9人の児童は「強度ノ下痢症状ヲ起シ衰弱死亡ニ至レルモノナリ」と原爆症で死亡した。



12/10/2022

Elderly woman crawling. The location was 1.2km south of ground zero on the high way in front of the Mitsubishi Steel Mill, August 10, 1945, the nextday after Nagasaki Atomic Bomb explosed.

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。

 アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、1945年8月9日午後10時(ワシントン時間)に、人類史上最初の原子爆弾の投下をホワイトハウスからラジオ演説を行った。この時には、すでに2発目の原子爆弾が長崎市で約11時間前の8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂していた。演説は非常に長く、そのほとんどがドイツ軍に戦勝した演説であった。

 長崎原子爆弾を投下して炸裂した8月9日に、ラジオ演説で、人口約25万5千人ほどの港町で軍事基地がある広島市と表現した上で、人類最初の原子爆弾の投下して、アメリカ軍の若者の殺害をできる限り避けたと語った。

「最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことは、世界に注目されるでしょう。私たちはドイツ軍との発見競争に勝利した。私たちは、戦争の苦しみを短くするために、何千何万というアメリカの若者の命を救うために、それを使用した。私たちは、日本の戦争する力を完全に破壊するまで、それを使い続けるだろう。」(The world will note that the first atomic bomb was dropped on Hiroshima, a military base. We won the race of discovery against the Germans. We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war.: https://www.presidency.ucsb.edu/documents/radio-report-the-american-people-the-potsdam-conference) 

 広島原子爆弾は軍事施設から遠く離れた市街地に8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。広島市で死亡した人の約85%は民間人であり、約14万人の男性、女性、子供のうち約12万人が犠牲になった。原爆は街の10分の9を焼失させ、全人口の半分以上を殺した。




12/03/2022

Daniel McGovern of the U.S. Air Force's 1st Film Unit shot footage of Nagasaki atomic bomb survivors shortly after the bomb was dropped. He filmed a woman who had developed massive keloids after being exposed to the bomb, starting with her face and continuing all over her body.

原子爆弾によって焼かれ、死傷つけられた犠牲者の被爆者たちの恐ろしい苦痛を、原爆映画が映し出した。アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーン(Daniel McGovern)は、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを発症した女性を撮影した。マクバーンは、アメリカに戻ると、秘密のコピーを作成して、原爆記録の映像をアメリカ軍の抑圧と抹消から救った。原子爆弾の投下後の5ヶ月間の撮影期間中も、毎日身体の両側から血の混じった膿が流れた。真っ赤になった背中を撮影する前に、看護婦が拭いた。撮影前に、冬なのに毎日ウジが湧いて取るのも大変だった。撮影中の照明が熱くて、何度でも気絶するかと思った(谷口稜曄)。

 アメリカ軍占領下の沈黙の後に、原子爆弾の映画製作者は、日本映画社(日映)と共同して、保存された映像の共用を開始した。1967年に日本政府に返還された複写映像は、文部省と仁科研究所の手に渡り、隠蔽された。原爆映画のフィルムは、全人類のために米国国立公文書館に寄託された。米国国立公文書館によって保護されると、世界中の映画や映画製作者たちは、映像を共有し始めた。原子爆弾の投下の表現に近づけるために、被爆地に直行し、原子爆弾を表現する映像を共有した。被爆地の映像は、制作者と視聴者の双方を強く惹きつけた。

 世界中の映画製作者たちは、米戦略爆撃調査団報告書(USSBS)が撮影した『広島・長崎の原爆の影響』を記憶から記録に変えた。日映が広島・長崎の死体から露出させた実物の映像は、あらゆるメディアが地球上に散らばった。核兵器が生産され続けるも、人間への攻撃に使われない理由の一つは、映画が原爆の映像を、一人ひとりの意識に沈着させたと考えたい。日映製作者の4人の映画作家は反抗を継続し、完結させる抵抗行為をした。日本市民は、映画に対する法的批判と文部省の権力による弾圧を回避する運動を始めた。1980年代には、『広島・長崎の原爆の影響』にてUSSBSが撮影したすべてのカラー映像を、寄付を募って米国国立公文書館から購入して日本へ送還した。日映のフィルムを購入した後に、地方局ではノーカットのテレビ放送を手配した。資料を返還する過程で、独自の映画を制作し、原爆の本も出版した。



11/26/2022

In mid-September, 1945 the newspapers reported that the effects of radiation can cause an abnormal drop in the number of white blood cells, so some bomb survivors requested blood testing. This patient is seriously watching the expression on the face of the doctor as the latter looks at a microscope.

広島原子爆弾による放射線被爆の影響で白血球の異常や減少が起こる症状が報道された。被爆者が血液検査を求めて広島日赤病院を受診した。医師が、被爆者の耳介から血液を採取した。医師が、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主になった若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。



 広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmの広島市中区千田町一丁目に建立された。被爆した翌月の1945年9月から建物の修復工事を開始した。爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられ窓まどガラスは砕け散ったままであった。1945年以降から、被曝した幼児を含む白血病などのがん患者が増加し始めた。原子爆弾の恐怖体験とケロイドは、被爆者の大きなストレスをかけた。



 戦傷病者とその救護にあたる人や施設を攻撃から守る目印として、赤十字マークが定められた。被爆後、広島赤十字の旗や看板は、焼け残った市内の病院、救護病院となった検疫所や国民学校にも掲かかげられた。被爆者は病院や救護所を受診して、原子爆弾が人体に及した被害の診察や治療を受けた。その記録の写真等は占領軍によって接収された。1973年5月に複写フィルムとなって日本に返還された。

 太平洋戦争が終結した1945年8月15日直後からの混乱の中で、アメリカ軍は原子爆弾の関連資料をアメリカ軍(AFIP)に接収して約28年間も極秘に保管した。1973年5月に日本に約2万点もの資料が返還された。主に写真、病理解剖、病理標本が返還された。写真は約1,877枚(カラー写真259枚含む)であり、きのこ雲、主要建造物、原爆閃光影、被爆者、救護所、市内の様子などである。病理標本は、パラフィン固定標本953点、ホルマリン標本681点、顕微鏡スライド標本1,769点が返還された。病理解剖の英語翻訳記録の約140事例の詳細が返還された。

  

11/19/2022

Three A-bomb orphaned brothers were left behind in the Nagasaki city after the Nagasaki atomic bomb exploded. The eldest of the atomic bomb orphans wandered barefoot with his two younger brothers in a wooden baby carriage.

 長崎原子爆弾の炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児と思われる兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて、1945年10月頃に素足で徘徊していた。原爆で両親を亡くした子どもを原爆孤児と呼称した。原爆により約7,000人の原爆孤児が発生したと推測された。

 アメリカ軍海兵隊第5師団所属のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル (Joe O’Donnell, 1922-2007)軍曹が、長崎原子爆弾に被災した長崎市内で、1945年10月頃に撮影した私的写真である。彼は、1945年9月から1946年3月まで、日本に駐留した。アメリカに帰国後に、全ての原爆ネガを自宅屋根裏部屋のトランクに閉じこめて、約43年間封印した。

 1990年頃に彼は軍曹として撮影した原子爆弾の軍機密写真の封印を解いた。その公開後に、原爆写真を検証するも、場所も個人も特定は困難となった。アメリカ国内から彼は非難されて追い込まれて、離婚に繫がった。1993年に福島県若松栄町の原爆写真展で坂井貴美子と出会い、1997年に再婚した。彼女と三男の息子のタイグ・オダネル(Tyge O’Donnell)らは、ジョーの遺志を継いで、原爆の出版や写真展などを展開している。

 ジョーが撮影した有名な「焼き場に立つ少年」も戦災孤児であった。「進駐軍が こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに、あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっととにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね。着替えもなんもなし。下は履くもんもなしですね。もうほんと。」と少年頃を回想した。



11/12/2022

n late July 1987, a photograph by Eiichi Matsumoto, a former Asahi Shimbun photographer who took pictures of Shukkei Garden immediately after the atomic bombing of Hiroshima, was discovered, and the names of those identified were listed on the grave markers as, from left to right: 5 grave victims, 38 in the middle, and 21 on the right.

広島藩主の浅野泉邸であった縮景園は、爆心地から北東約1.3kmの縮景園(広島市中区)は崩壊して灰塵に帰した。広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から避難した被爆者で満杯となった。しかし、次々に被爆者が縮景園で死亡した。被爆直後から、数多くの被爆者が縮景園似゜避難した。治療もほとんど受けれないままに死亡して死体が、縮景園内に集団舞うそうされた。死亡した被爆者の死体を園内の小高い丘の上に集団埋葬した。その埋葬した地点に墓標となる木板の標札を掲示した。1945年10月末時点の標札には、氏名が判明者として、左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。松の大木は、広島原子爆弾の爆風と熱戦によって、枝や葉が剥ぎ取られて、ハゲ木となった。

 縮景園は、江戸時代初期の1620年に広島藩主・浅野長晟が築庭され、戦前は泉邸と呼称された。太平洋戦争中に、縮景園は避難場所に指定され、原爆投下直後、おびただしい被爆者が押し寄せた。園内の森林は燃えだし、火災が迫って来た。猛烈な熱線で前の川に飛び込み水死した。縮景園の中で次々と被爆死して、死体は荼毘にもされず埋葬された。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見された。広島県教育委員会が1987年7月31日に写真を手がかりに、埋葬された原爆死没者の遺骨を発掘した。遺骨の発掘調査を行って、数千点の骨片を収集して、8月6日に原爆供養塔に納骨した。1988年3月19日、縮景園の遺骨が発掘された地点に慰霊碑が建立された。



11/05/2022

The Mitsubishi steelworks near the detonation point was destroyed in the blast of Nagasaki Atomic Bomb, where a dead horse lies outside the steelworks.

 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があった。長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、長崎原子爆弾の爆風と熱線で全焼して破壊され崩壊した。その隣の崩壊した第二工場の鉄骨が、あめのように波打っていた。地下の魚雷工場は比較的無傷で残った。製鉄所の外には死んだ馬が県道に横たわっていた。その背後に、長崎市電の線路が走っていた。

 爆心地に近い三菱製鋼株式会社長崎製鋼所では、従業員や養成工、動員学徒、教員など約1,400人が死亡した。鋼板や航空機の部品などを製造していた工場もほぼ壊滅状態となり、機能は全廃して、折れ曲がった鉄骨や機械設備等の残骸だけが残存した。

 長崎原子爆弾の炸裂に伴って生じた猛烈で強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。爆心地から約1kmで、最大風速は秒速約160mにも達した。特に熱傷を及ぼしたのは、爆発後の約0.3秒から約3秒までの間の赤外線であった。地上物質の表面温度は、長崎原子爆弾の直下では恐らく約3,000~約4,000度にも達したと推定された。



10/29/2022

At Tanna, Niho Town, about 1.5 km northeast of Ujina in the southern part of Hiroshima City, there was a military medical center for the corps in the headquarters of the Education Marine Corps, where many seriously exposed atomic bomb survivors were admitted and some were recuperated under mosquito nets.

 広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部の暁第6167部隊があった。陸軍船舶司令部における兵団軍医部の医務関係の司令部であった。多数の重篤な被爆者が次々に入所して、一部には夏期の蚊帳の中で療養していた。被爆して日数が重なるのに従って、被爆者の収容人数は急増して、さらに原爆症での死亡者数が増大した。広島市周辺部の被災を免れた救護所は、どこも被爆者で溢れた。

 暁部隊と通称された陸軍船舶司令部の建物は全てが救護所になった。広島市内で新型爆弾の炸裂が、中国地方の各暁部隊に伝達された。訓練を一時中止し、大発や小発の上陸用舟艇に分乗して、1945年8月6日正午過ぎから広島市南部の宇品港に上陸した。午後2時頃には宇品の船舶司令部には、約1,300人の被爆者が収容された。広島原子爆弾で悲惨な犠牲を伴った広島市内で、一番先に被爆者の救済と救助に奔走したのは、陸軍船舶司令部で補給を任務とする宇品の暁部隊であった。

 アメリカ軍からの空襲に備えていた広島市内の約100ヶ所以上の救護所は、広島原子爆弾が炸裂して、爆心地から約2km以内は壊滅した。被爆者は、近場の大きな建物や学校跡などを目指して、その周辺の地域が救護所の役割を果たした。しかし、そこには医療も枯渇して、火災、建物の崩壊、放射線などの黒雨でどしゃぶりになった。

 広島市南部の宇品にあった暁部隊と通称された陸軍船舶司令部は、海上輸送など海運にかかわる陸軍の部隊であり、総兵士数は30万人にも及ぶ大きな組織であった。宇品港は、錨地から海岸までの距離が近く、軍事目的の秘匿が容易となり、軍事的的な条件を整備して、各地から収集した兵隊や物資を戦場に運搬する湾口となった。

 太平洋戦争は、日本軍が1941年12月8日未明にアメリカの真珠湾攻撃を突発して、約3年8カ月にわたり勃発した。1942年7月に陸軍運輸部は廃止されて、船舶輸送司令部は軍司令部と同格の船舶司令部に格上げされた。司令部は、広島市宇品の旧陸軍運輸部本部(凱旋館内)に設置された。陸軍船舶隊は、通称で暁部隊と呼称されて、各専門部隊が構成された。陸軍船舶司令部の部隊は、秘密保持のために、教育船舶兵団司令部は暁6167部隊とと呼称された。



10/22/2022

The area around Nishizaka-cho, Nagasaki, about 2.4 km southeast of the hypocenter of the Nagasaki atomic bomb, became a pile of rubble. On August 10, the day after the bomb exploded, Nagasaki citizens who survived the burnt ruins stood in grief.

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの上空約503mで炸裂した。

 長崎駅前の西坂町から北へつらなる丘陵を見あげると、階段状に住宅が丘の上までつらなっていた。そのほとんどが焼失してしまった。被爆直後に、被災した工場群の従業員の多くは、この丘の上へ避難した。「ほとんどがはだしで、全身血に染まった者、やけどをして顔や手足がはれあがり、真っ黒くなって歯だけは白く見える者、 「水を・・・・」といいながら、くずれたようになってはい回る者、砲台山をめざして、えんえんと続いていった」(『長崎原爆戦災誌』第2巻)。

 斜面にならぶ家々は倒壊し、ところどころ火があり、それらが狭い道をふさいで、歩行は難渋をきわめた。その後「平坦地域をなめていた火災は、次第に山の手に燃え移り、午後になって燃え出した家もあり、夜に入っても、きつね火のような火災が続いた」(同上書)。翌日の8月10日の早朝である。画面を部分的に拡大してみると、焼けだされた人びとが、余燼のくすぶる焼け跡に立つ姿が、至るところに見出された。

 西坂町は、爆心地から約2.0〜3.0kmに区分されて、準焼失地域に区分された。長崎町の西坂公園には、日本二十六聖人殉教地がある。1957年2月5日に、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人がの26人を、西坂の丘で磔にて槍で刺殺する死刑に処した。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に類似した。長崎市の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく死体が、道路の脇や川底などに夏日に散乱した。進駐したアメリカ軍は、爆心地近隣の浦上川沿いに飛行場を設置するために、死体と遺骨が散らばる町をブルドーザーで整地を始めた。遺骨の惨状を憂えた長崎市民らによって遺骨収集が始まった。1946年3月からは長崎市西坂町にあった東本願寺長崎説教所(当時)を中心に、長崎駅から大橋、住吉等まで遺骨を丹念に拾い集めた。



10/15/2022

View toward south-southeast from a position immediately east of the prefectural road at the northern edge of Hamaguchi-machi, Nagasaki City. 250meters south of the ground zero, around 1:00 pm August 10, 1945 at Hamaguchi-machi, Nagasaki City.

 長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の長崎市民の婦人が見守った。

 爆心地の松山町の近隣であった浜口町の北部一帯(現 平野町)は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。原子爆弾の炸裂後に発生した火球の中心温度は、摂氏数百万度以上に達した。人間と環境をすべて抹殺する核兵器が人類史上に2番目に長崎市で炸裂した。市民にも多くの犠牲者を出した長崎原子爆弾の惨禍を展示する長崎原爆資料館が、爆心地の近隣の長崎市平野町7番8号の爆心地の松山町を望む高台にある。

 長崎市の爆心地周辺では、何の罪もない民間人が息絶え、地上の建物は火炎に包まれ、あらゆる生命は死滅した。地上は灼熱のために、救護隊の接近も数時間後も遅延した。死体は真っ黒に焦げて炭化した死体は、バラバラと崩れ去った。




10/08/2022

In early September 1945, a boy exposed to the Nagasaki atomic bomb was admitted to a special relief hospital set up at the Shinsei Zen National School in the town of Shinsei Zen, Nagasaki. The boy, who had been exposed to the bomb, lay on a futon spread on the floor.

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年が、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわり原爆症により衰弱していた。医療関係者が参集して、終戦直後の8月10日に、新興善救護病院となった。1945年8月から10月まで、長崎原子爆弾により被爆した数千人の被爆者を収容し加療した。

 爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、救護所の病室として使用された。鉄筋コンクリート3階建て、被爆で窓ガラスが割れて、熱線が壁を焦がす被害を伴ったが、倒壊や焼失は免れた。周辺地域は、長崎原子爆弾により発生した二次火災によって、広い範囲にわたり類焼して焼失していた。強固な鉄筋コンクリート建てで、被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日頃は、悲惨な救護所となり、まだ患者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、顔は男女の区別もつかず、次々に入院した被爆者は死亡した。手当てする医薬品、衛生材料もなく、港から海水を汲んできて、ドラム缶で煮沸し、寝ている患者にじょうろで散布した。

 1945年10月には、長崎市坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となり、新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。1946年5月に新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始した。1950年に新興善小学校に外来診療を設置した。1958年6月に外来診療所を坂本町の本館に復帰した。戦後の新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。市民の強い要望で一部が残され、救護所が再現された。



10/01/2022

After the Hiroshima atomic bomb exploded on August 6, 1945, a large number of A-bomb survivors continued to rush to the outpatient examination rooms of the temporary special relief hospital set up at the Oshiba National School, even on October 11.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から、大芝国民学校に設置された臨時特設病院に、被爆者が殺到した。工作室を代用して、多数の受信した被爆者に、救護者は10月11日に外来診療を施行した。被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。校内では負傷者はでたが、即死者はいなかった。被爆直後から、被爆者が校庭に殺到したために翌日の8月7日から臨時特設病院を開設して、被爆者の救護をした。1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。1926年に大芝尋常小学校として創設されて、1929年に広島市大芝尋常小学校に改称され、1941年に広島市大芝国民学校になった。終戦後の1947年に広島市立大芝小学校と改称され現在に至る。

 広島原子爆弾の爆心地から北方に約2.4kmにある大芝国民学校に、炸裂後に臨時特設救護病院が設置された。広島市大芝1丁目25-18の校舎は大破して、一部が焼失した。大芝国民学校の校庭に被爆者と避難者が、溢れかえって臨時救護病院が設置された。1945年8月6日の原子爆弾が炸裂後に、大芝町の周辺は原子爆弾の熱線により火災に取り囲まれた。救護に当たっていた者は、動かせない重傷患者を残して、一時的に退避しなければならなかった。火災の勢いが鎮まるとともに、救護者らは大芝国民学校に引き返して、再び救護の任務についた。救護者の中には医師約2人、歯科医約3人、薬剤師約2人、助産婦約1人がいた。救護者らは、専門性を越えた不眠不休の医療活動が、切実に被爆死やには必要とされた。

 臨時特設救護病院となった大芝国民学校の校舎の教室には、筵を敷いた床に大勢の被爆者が寝込んでいた。水、水とうめき、血まみれな被爆者もいた。背中一面火傷した被爆者の火傷にウジ虫がわいていた。毎日多数の被爆者が死亡するために、広島市の死体焼場も機能しないで、大芝国民学校の校庭の隅で、火葬に付すも、骨になるまで長時間かかった。親族は、火葬する周りで、悲痛な思いがこみ上げて沈黙した。



9/24/2022

The medical treatment at the Hiroshima Hospital Out-Patient of the Red Cross in Japan soon after the explosion of Hiroshima Atomic Bomb at August 6, 1945.

 広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後から、原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、広島日赤病院に殺到した。その日赤病院に受信した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 爆心地から約1500m離れた広島赤十字病院の瓦礫の中に、死者と瀕死の人々が散乱した。ほとんどの医療施設が破壊された中で、広島日赤病院は約69名の職員が戦死して、爆発後の数日で数千人の死傷者を出した。猛烈な消火活動で本館は助かったが、中庭の木造建築は失われた。当初は食料も水もほとんど手に入らず、圧倒された職員は何日も眠れず、自分の傷を無視する職員もいた。重傷者は、廊下や玄関、外の畳の上に寝かされ、そのまま瓦礫の中に放り込まれた。1945年10月に、国策医療が終結し、無料診療が終了するまで残っていた患者もいた。原爆病が続く中で、広島県民は医療の充実を訴えた。年、被爆者援護施設を開設した。1993年に取り壊された本館は、1995年に原爆の被害を受けた部分が慰霊碑として奉納された。チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため、広島赤十字病院の医師が1990年代に旧ソ連に派遣された。

 1945年9月に日本赤十字社は、後に赤十字国際委員会(ICRC)の支援を受けて、広島と長崎の原爆患者、死亡者、負傷者、障害者などを救済するために、最初の組織の一つとなった。広島の日本赤十字病院はほぼ壊滅状態だったが、石垣は残っており、何千人もの人々が救護と安全を求めて殺到して集まった。病院職員の約85%が負傷して、約10%近くが死亡した(約554人中約51人)。生き残った赤十字職員は、できる限りの治療を施した。しかし実際には、保管装置が破損して、ほとんどの薬品が爆風で汚染されたために、病院はもはや十分な機能を果たせなかった。献血者も死亡または失踪しており、輸血できる可能性は少なかった。初日に避難してきた1,000人の患者のうち、約600人が急速に直後に死亡した。

 1945年9月8日に赤十字国際委員会の新しい日本代表団長となったマルセル・ジュノー(Marcel Junod)博士が来日した。広島原子爆弾の惨状を知っていた彼は、直ちに日本政府の厚生省と交渉して、9月8日に、アメリカ軍から提供された約15トンの医薬品や医療器具を携えて、自ら広島市に入った。ジュノー博士は約4日間にわたり広島市に滞在して、救援活動に従事した。1956年9月に、広島赤十字病院の構内に、「日本赤十字社広島原爆病院」(現・広島赤十字病院・原爆病院)を設立した。診療科:内科・外科・放射線科、病床数:120床にて、原爆被爆の後遺症に苦しむ被爆者への提供する専門的医療サービスを開設した。



9/18/2022

Battered religious figures stand watch on a hill above a tattered valley. Nagasaki, Japan. September 24, 1945, 6 weeks after the city was destroyed by the world's second atomic bomb attack.

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。