2/08/2019

A 16 years old girl who was exposed to radiation was hospitalized at Hiroshima Atomic Bomb Hospital with numerous skin grafting operations on her face and neck keloid.

広島原子爆弾により、4歳の少女が爆心地から約2kmの福島町の自宅の外で被爆した。被爆して気がついた時は、家の下敷きになっていた少女は、ご近所に助けられた。家内にいた家族は無傷であった。
 16歳の思春期になって、広島原爆病院に1957年5月12日に入院して10月21日までに顔面から頸部にかけたケロイドの形成術に9回もの植皮手術を受けた。手術して麻酔から覚める夜中になると、痛がって悲鳴を上げて暴れた。手術から帰ると、絶対安静させるために、帯紐で彼女はベッドに縛られた。8回目の手術の時に、彼女は「今夜はあばれないから、しばらないでね」と懇願した。我慢できずにあばれ始めて、植皮した左頬に出血したあざとなった。植皮のために、両大腿から皮膚を剥ぎ取り、傷だらけとなった。再々の手術を受けて12月14日に退院した。被爆しなかったら美しい少女が、原子爆弾により見るも無残な姿になり、被爆を人知れずに一生悩み恨み続けることになりましょう。


1/26/2019

A 30 - year - old woman was injured by the Nagasaki atomic bomb on the left cervical part and right cheek part, and was housed in the Omura Naval Hospital. (Nagasaki)

長崎原子爆弾により、30歳の女性が左側頸部と右頬部に介達弾片創を受傷した。大村海軍病院の八病舎に1945年9月6日に収容された。女性は左側頸部に斜めに約2cmと右頬部に約2cmの介達弾創部を認めた。右頬部の上方に弾創部の瘢痕があった。弾創部の周囲は、びまん性に膨隆した。リバノールガーゼを創部に貼付した。収容されてから、溢血斑や脱毛が約3日目の9月9日から認められた。
 長崎原子爆弾の炸裂により、瞬時に建造物が崩壊して、被爆者は建築材の破片が飛弾して弾片創を受傷した。




1/19/2019

An adult male who bombed a severe burn injury form his face to both upper limbs where was an exposed part of the body by Hiroshima atomic bomb was rescued at Hijiyama national school.

広島原子爆弾に被爆して、熱戦と放射能による熱傷により比治山国民学校の救護所に収容された。比治山は爆心地から東に約1.8kmに位置して、爆心地側の西側は壊滅したが、東側は比治山が遮って被災が少なかった。成人男性が、特に身体の露出部があった顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。左顔面から頸にかけて重度の熱傷も伴った。両前腕の被爆創に包帯が巻かれていた。被爆者は、安全な場所となる救護を求めて比治山の救護所に避難や護送された。比治山に救護所が設置されるも、すぐに被爆者で詰まった。
 1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市永年防空計画により広島市内の国民学校33校が、300 人から 5,000人を収容とする救護所にされた。 近隣の多聞院には1945年8月6日の当日に壊滅した広島県庁が臨時に避難した。1949年から比治山の頂上付近にアメリカ合衆国が開設した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casuality Comission)が移設され、原爆症の長期的調査研究が行われた。



1/13/2019

Relatives of Atomic Bomb survivors searched for a name on the bulletin board of the relative inmate lists of the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾で、行方不明になった肉親をや被爆者を捜すために、焼け残った日本銀行のビル前に親族が群がった。そこには多数の収容者名簿が掲載されていた。そこで抹消されていた我が子の名前を見出して、その場に泣き崩れる母親の姿も多かった。肉親の名前が見い出せなかった親族は、その他の焼け残りのビルや、国民学校などの収容所や救護所の掲示板や収容所内に肉親の名前や生存を捜し巡った。
    焼跡には親類や縁故者の安否を探ねる多く人々が、広島市街から広島市内に入って来て、収容所はいずこも混雑をきわめた。収容所でも、発見できずむなしく帰っていく人々も多くあった。原爆爆発直後に被災者が避難するだけでなく、家族や親族の安否を気遣って逆に爆心地に向かった。救援と救護のために被害の中心地へ赴いた人々もあった。




12/29/2018

A flattened Nagasaki City tram car and its passengers at 230m south-southwest of ground zero were blown off by blast wave and scattered into the ditches.(nagasaki)

長崎原子爆弾の爆心地から南南東の方向に約200mの地点で、長崎市電と乗客が猛烈な被爆をした。右上方から炸裂した猛烈な爆風と火玉で、完全に市電と乗客は粉々に粉砕して即死した。長崎市内の大橋行きの市電と乗客は、鉄橋の付近で被爆した。電車の台車だけは線路内に脱線して、それ以外の市電と乗客は、手前の側溝に叩きつけられた。全員の乗客は熱戦で焼死して黒化して即死した。
 1945年8月9日午前11時2分にB-29(ボックス・カー)から長崎市に原子爆弾が投下され炸裂した直後に、路面電車から投げ出された原爆の被害と犠牲を示した。 "ファット・マン(Fat Man)"と呼称された長崎原子爆弾は、地上約500mで炸裂して、長崎市の推定人口約200,000人のうち約13.5%に相当する約27,000人(約13.5%)が即死した。広島原子爆弾では、約78,000人が即死した。


12/22/2018

His face was burned by the Hiroshima atomic bomb and the eye opening and closing was restricted by the scar of the keloid around the eyeball. (Hiroshima)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下された。直後に炸裂して、爆心地より爆風・熱線・放射能が無差別に市民らに突き刺さった。原子爆弾に被爆して受傷した膨大な被爆者が、原爆症で苦悶しながら原爆死した。熱戦による火傷だけでなく、その後に醜いケロイドの瘢痕が残存した。特に顔面の周囲を火傷して、その後に眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼によるまぶたの開閉の可動域が制限されて診療を受けた。右目は、眼球が乾燥してまぶたも焼ただれて失明した。
 ケロイドは、特に露出部の皮膚への熱傷の後、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生して、不規則な隆起を生じた。爆心地から約3km以内の被爆者に、被爆後4ヵ月頃より発生し、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。原爆白内障が被爆後の約3か月から約10年ほど潜伏した後に発症する放射線により発症した。
 原子爆弾投下に際し、被爆者の中にケロイドを発症する人が多発した。爆発時の強力な輻射熱によって深部に達する火傷を負った部分が肥厚性瘢痕した。手術により切除しても再発して難治性で、顔面部から四肢の可動部のケロイドは、日常生活や社会生活にも大きな障害伴った。


12/16/2018

After the explosion of the Nagasaki atomic bomb, Shinzen National School concentrated the 60 A-bomb victims with 4 rows and about 60 people in one classroom.(Nagasaki)

長崎原子爆弾により1945年8月9日に炸裂した直後に大きな被害を受けた長崎医科大学附属病院が、8月10日から新興善国民学校を救護所として被爆者の診療を開始した。4列に寝かせ1教室あたり60人を収容して、1階から3階まで数100人を収容した。収容患者は次々に死亡して、入院患者は増大する状況となった。
 爆心地から東に約600m離れた長崎医科大学は爆風で壊滅的な打撃を受け全滅全焼した。爆心地から南3kmの新興善国民小学校は窓ガラスが飛び散り、付近一帯火災がはまぬがれた。8月10日に長崎市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。午後に新興善国民小学校に針尾海兵団派遣の救護隊249人の宿舎なり、衛生材料が届いた。長崎市民が治療を受けに続々と集まった。後日に世保海軍病院武雄分院や各地医科大学から救護隊も集まり、8月16日に長崎市内で最大の特設救護病院になった。その後約2週間だけで約8,000人も治療した。



12/08/2018

A widow employed in the day-laybor took a nap with her baby, hiding her face that incurred the keloid disease by the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下され炸裂して、夫は被爆死した。母親は被爆による顔面に強度の熱傷により顔面はケロイド状となった。毎日の生活を支えるために日雇い人夫として重労働をした。その休憩時間に路上に横たわり休息取りながら、顔面をタオルで隠しながら。幼児に母乳を飲ませていた。



12/02/2018

The insides of the shelters were filled with the dead bodies and white bones of nearby mothers and children killed by the explosion of the Nagasaki atomic bomb. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された炸裂により、長崎市内はほとんど完全に崩壊した。崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯であった。防空壕の奥からは叫び声が聞こえ、土砂や抗木で埋まり生き埋めになった。庭の防空壕に避難して小さな防空壕ではさらに危険となり壊滅した。地上で熱線を浴びた被爆者は露出した部分が重度の熱傷、爆風による飛来物、ガラス片などと強烈な放射線が身体に刺って苦しみながら泣いて被爆死した。


11/17/2018

Wiping away tears at this overwhelming devastation, 1km south of the ground zero, around noon August 10, 1945 on the prefectural road near the Iwakawa-machi, Nagasaki City.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分頃に、ボックスカーと呼称されたB-29爆撃機投下されて炸裂した。その爆心地から南に約1kmにおいて、翌日の1945年8月10日お昼頃に、人影はまばらでも、母親と娘は肉親を探しに来ていた。爆心地から1km足らずで、近距離の周辺である長崎市岩川町の県道付近にて、一面が焼け野原となり全ての木造の家は焼失した。あまりにも悲惨な被爆状況に、母と娘は言いようのない失望で胸が一杯に成り、涙を流して慟哭した。岩川町から長崎市中心部は、家が倒壊して道路が通れなくなった。道沿いには、被爆者や馬が生きてるままの格好で真白の白骨の灰になった。


11/10/2018

Hiroshima Atomic bomb survivors were rescued from the port of Ujina to the second quarantine station in Ninoshima to be bedridden with severe burns and severe pain.(Hiroshima)

広島原子爆弾の炸裂による重態の被爆者は、陸軍船舶司令部により宇品港から似島の第2検疫所に緊急的に救護された。被爆は熱傷が圧倒的に多く、特に顔面から四肢などの露出部に受傷した。激しい疼痛のために、身動きもできない寝たきり状態となった。第2日目から放射能の被爆により、多くの被爆者は急激な発熱や嘔吐を訴えながら死亡に至った。死体は、約1.5km離れた馬匹検疫所の空き地に埋葬した。8月12日に野戦病院に転換した。救護人員だけでなく医療材料が枯渇した。終戦直前の8月14日にから、収容された長期化料が必要な生存者は、大河国民学校などの救護病院にも転送された。最終的に残存者は8月25日には、広島市外の周辺の救護病院に転送されて、似島救護所は閉鎖された。数多くの身元不明の遺体のための墓の代わりに、千人塚を建立した。1995年に千人塚を発掘して約2,000体の遺骨は、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨され、千人塚は撤去された。


11/03/2018

A huge number of survivors rushed to Michino Station through Nagasaki Main Linen near about 3.5 km north-northwest of Nagasaki City. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者に、薬液を医師と看護婦が塗布した。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。


10/26/2018

The Temporary First Aid at Sumiyoshi bridge was made by a digging hut where the atomic bombed corpses were pulled up and burned on the tin board from the Honkawa river.

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


10/13/2018

At the Shiroyama National School in the uninhabited zone with atomic bomb survived by the Nagasaki atomic bomb, countless white bones were scattered even after two months. (Nagasaki)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



10/06/2018

A Japanese young soldier was transported with severe burns due to the Hiroshima atomic bomb to a temporary Hospital in Ninoshima Island off Hiroshima Bay (Hiroshima)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



9/24/2018

A 3 year old girl died in Omura Naval Hospital just after hospitalization due to Nagasaki atomic bomb. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。

9/16/2018

The dead bones of Hiroshima atomic bomb victims were buried in a thousand mounds at the site of the quarantine station on the Ninoshimar island. (Hiroshima)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。




9/10/2018

A 15 years old boy who was mobilized as a student was exposed to the Nagasaki atomic bomb at the Mitsubishi factory and suffered from severe burns and tetanus with intense pain.

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



8/25/2018

The great heat rays burned the dark parts of "Kimono" pattern into her skin by Hiroshima Atomic Bomb.

広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。被爆日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
 広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。

8/15/2018

A new bomb dropped to Hiroshima, B29 attack with a few aircraft, considerable damage to hHIroshima city (Imperial Headquarter announced 15:30 on August 7, 1945)

大本営発表(1945年8月7日15時30分)
広島へ敵新型爆弾 
B29少数機で来襲攻撃 
相当の被害、詳細は目下調査中

1. 8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細は目下調査中なり

落下傘つき 空中で破裂
人道を無視する悲虐な新爆弾

6日午前8時過ぎ敵B29少数機が広島に突入、少数の爆弾を投下した。これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に火災が発生した。敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したもののごとく、この爆弾は落下傘によって降下せられ空中で破裂したもののごとく。その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある。
敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には戦争遂行上の憔悴を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残虐性を敢えてした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である。

朝日新聞(昭和20(1945)年8月8日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

8/12/2018

While Hiroshima atomic bomb collapsed almost Hiroshima City, a mother sent her daughter with a painful bandage to Hiroshima Red Cross Hospital on a large hand-down Cart every day.

広島原子爆弾によって広島市内は壊滅した。その焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車にて、広島日赤病院に通っていた。 娘は1945年8月15日に広島市革屋町に出勤する途上で被爆した。爆心地から約2kmの羽衣町の南大橋で被爆した。母は救護所を転々として娘を探索した。23日目に大竹市玖波小学校で母と火傷した娘は再会できた 。母は吉島の家から娘を大八車で日赤に通わせた。



原子爆弾に被爆した被爆女性が、顔面から左上肢から左半身の熱傷を1945年10月初旬に広島日赤病院で手当を受けた。広島日赤病院の皮膚科医長と救護看護生が治療をした。被爆女性は母親に荷車に乗ってもらっていた娘であった。先生は 継続した治療を諦めていた。母親が玖波町から娘を連れて帰り、毎日病院に大八車で送り迎えした。両人ともに戦後も原爆症が抑えられ健在であった。




8/09/2018

From the explosion of the Nagasaki atomic bomb to the mushroom climb, the US military B-26 took a 16 mm color image for 3 minutes 50 seconds.

 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。




8/06/2018

The Hiroshima Atomic Bomb exploded indiscriminately against Hiroshima citizens around mushroom clouds without Etajima or Kure Navy Town.

広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。





The Hiroshima Atomic Bomb exploded indiscriminately against Hiroshima citizens around mushroom clouds without Etajima or Kure Navy Town.

広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。




8/05/2018

A 17 years old female student who was exposed to the burns of the back head and forearm by the Nagasaki atomic bomb was escorted to the Omura Naval Hospital.

長崎原子爆弾の炸裂によって被爆した17歳の女子学生が、長崎市かせ北東約20kmの大村海軍病院に護送された。炸裂した当日の8月9日に8病舎に収容された。後頭部に小鳩卵大の裂創があり、創面は挫滅して、中等度に出血していた。顔面は発赤して腫脹して、疼痛を伴った。左前腕手背は水疱を形成して、各所がびらんしていた。意識は明瞭で、一般状態は特記はなかった。8月25日になって、顔面熱傷は軽快して、左上腕は外側全面にびらがあり、手背は瘢痕化して、手指の可動が少し制限された。後頭部は化膿はなかったが、母指頭大の肉芽となり、頭髪が軽度に脱毛した。体温は8月15日まで39度程度まで上昇した。9月17日に37.9度、9月19日に36.8度に降りた。原爆症により、8月28日に白血球数は1,800に低下して、赤血球は3,880,000、血色素53%、色素係数は0.69も減少した。一般状態が落ち着き10月1日に退所となった。


8/04/2018

With Hair loss stage on two months later by Hiroshima stomic bomb, but the brother diedin 1949, and older sister died in 1965 after the relapse of atomic bomb disease. (Hirishima)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1kmの舟入町で姉弟が被爆した。自宅で11歳の姉と9歳の弟が夏休みの宿題をしている時に被爆した。その後に2ケ月経過した1945年10月頃には、原爆症による著明な脱毛症状を伴っていた。広島日赤病院で急性原爆症は診療されて、小康状態となった。しかし原爆症が再発して、弟は1949年に死亡した。姉は、結婚して1児の母となった後の1965年に死亡した。




8/03/2018

The Injures by Nagasaki atomic bomb didn't even have then strength to drink themselves well, and the water only moistened their lips for death.(Nagasaki)

長崎原子爆弾による熱射と放射線に浴びながら三菱製鋼所の付近まで避難した。爆心地から南約1.5kmに、翌日の1945年8月10日午前10時頃に井樋ノ町のトラックの荷台の上と横で既に数名が被爆死していた。1台のトラックの周辺では、一面が焦土化した地域を避難して、約10人が日陰に倒れ伏した。長崎市の連絡員が自分の水筒を被爆者らに渡した。トラックの手前の布団の上に座り込み被爆した少女が、その水筒から少量の最後の水をゆっくりゆっくりと回して飲んだ。


8/01/2018

A soldier who had suffered from oral inflammation and depilated from bleeding within the mouth due to severe atomic bomb died the following day. (Hiroshima)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から南西1.0kmの屋外で被爆した日本軍兵士が、第1陸軍病院の宇品分院に護送された。重症の原爆症により、口腔内を診察すると、口唇から出血して、さらに歯茎からも出血が継続していた。口内炎も併発して、さらに脱毛も伴った。1945年8月下旬に病状を撮影した翌日に、日本軍兵士は死亡した。


6/03/2018

An 18 year old femal student was brought in the Omura Naval Hospital, whose face, both forearms and the right knee joint were burned by the Nagasaki atomic bomb. (Nagasaki)

長崎市から北東約20kmも離れている大村海軍病院は、大村海軍航空隊のために1942年10月から開設された。1945年8月9日午前11時2分に炸裂した長崎原爆から午後3時になって電話連絡で救護隊が被爆者の護送を始めた。18歳の女性学徒が、8月9日に長崎海軍病院の第6病舎に護送されて収容された。顔面および両方前腕から右膝関節周辺に第2度の熱傷を被爆して、水疱を伴っていた。8月25日には、顔面の熱傷は黄褐色の痂皮で覆われてほとんど落ち着いた。しかし、8月28日の血液検査で白血球数は約800個 /m3( 基準値3,500から9,500)まで著明に減少した。赤血球は437万個(350から500万)、ヘマトクリット48%(35から45%)、色素係数は0.55であった。創部はリバノール肝油で湿布やマクロライドを塗り、火傷は軽快した。リンゲル液は静脈注射して、トリアノンを服用して感染を予防して、ナルビンを注射して造血した。8月31日に第3病舎に転舎した。